【改訂版】ぺちゃんこ地味系OLだけど水曜日の夜はびしょぬれ

桃瀬の異変


 これまで、恋愛経験ゼロといっても過言ではない桃瀬は、二十歳(はたち)の誕生日を迎えた直後、石和(いさわ)というイケおじの恋人ができた。石和との交際で必然的に初体験となり、ついに、処女ではなくなった。

 水曜日の夜、ドレスコード用に買ったレース編みのワンピースを身につけてレッドサンズへ足を運んだ桃瀬は、「よう、理乃ちゃん。今夜はガーリー系か。なかなか似合うじゃん」と軽口をたたく(あくつ)に、「こんばんは」と挨拶した。「バーなら、まだ準備中だぜ」と、親指で階段をしめす。レッドサンズではなく、石和のいる二階(セブンスター)目当ての桃瀬は、少し早く到着してしまった。

「なにか食べる?」という圷に首をふり、外のテラス席で待つことにした。一台のスポーツカーが、ウインカーを点滅させて駐車場へハンドルを切る。エンジンを停止して運転席から姿をあらわした女性は、ゆるやかなウェーブをきかせたロングヘアーに、三十代とは思えないほど透きとおった肌をしていた。彼女の名前は沙由里(さゆり)といって、性的な意味で石和を狙っている。

 ……あのひと、このまえ見た美人さんだぁ。

 桃瀬の(にぶ)い思考回路では、沙由里の目的を見ぬくことはできない。だが、本能が機敏にはたらく沙由里は、テラス席に坐る桃瀬をちらッと見るなり、足をとめた。

「ねえ、そこのあなた」

 声をかけられるとは思わなかった桃瀬は、「は、はい!」と大きな声で返事をして、「やだ、静かにして」と注意を受ける。

「すみません……」

「あなたの顔、見たことがあるわ。……セブンスターに飲みにきたの? ずいぶん若そうだけど、未成年ではないわよね」

「成人式は来年ですが、いちおう社会人です」

 ヒップだけでなくバストも強調されるパンツスーツをグラマラスに着こなす沙由里は、猫背になりやすい桃瀬の顔をのぞきこんでくる。レッド系ベージュの口紅が色っぽく、シャワーコロンの香りがキャリアウーマンを彷彿とさせる。流通会社の事務仕事が精一杯の桃瀬とは、正反対といえる存在だ。……近くで見ると、本当にきれいなひと。緊張する。

 沙由里の視線を全身に浴びる桃瀬は、ドキドキと心拍数が上昇した。店内の窓からテラスのようすに気がついた(あくつ)が、迫力美人に気圧(けお)されて固まる桃瀬に助け舟をだす。


「こんばんは、沙由里さん。今夜もばっちりメイクで、最高にイケてますよ」

「あら、坊や。それは皮肉かしら? でもね、わかっているでしょう? わたしが(めか)しこんでくるのは、あなたのためではないわ」

 圷は桃瀬を一瞥(いちべつ)したのち、「そりゃそうでしょうね。沙由里さんは、華美(はで)な見た目のわりに一途ですから」と、わざとらしく笑みを浮かべ、ふっくらとして豊満な胸もとへ視線を落とした。沙由里に性的な魅力を感じる圷は、あからさまな態度をしめす。彼女のほうでそれを容認すると、「お先にね」といって、店内へ向かう。テラスに残された桃瀬と圷は、同時に溜め息を吐いた。


「はぁ、きれいなひと……」

「いつ見ても、あの躰つきはエロくてやべぇな。美人に口説かれて、なんで手をださずにいられるンだよ」

「手って、誰が?」

 沙由里より優位な立場をわかっていない桃瀬に、なんとなく苛立(いらだ)ちを覚えた圷は、舌打ちをした。

「そんなの、きまってるだろ。きょうは水曜日だぜ。理乃ちゃんも、ぼけっとしてないで行けよ。時間すぎたぞ」


 圷に急かされてセブンスターへ顔をだすと、沙由里は石和と談笑していた。ふたりの横顔は馴れたもの同士のおだやかさがあり、紳士的な接客をする石和とのあいだに、ふたりだけのとくべつな空気が流れる。そのとき、桃瀬の胸に、針で刺されたような小さな痛みが走った。理由を考えるよりさきに、石和が動きをみせる。沙由里への対応を中断すると、

「いらっしゃいませ、お嬢さん。また逢えてうれしいですよ」

 と、カウンター越しに桃瀬の来店を歓迎した。接客用語でもてなされたが、石和の表情はおだやかで、恋人を(いつく)しむ目もとは、微かにゆるんでいる。

「ホットを、おまかせでお願いします」

「かしこまりました」

 テラス席で夜風を浴びたせいか、躰が冷える桃瀬は、石和の作るブランデー入りのまろやかなココナッツティーで温まると、早々に席を立つ。「ごちそうさまでした」会計は石和の厚意で発生しない。アパートへ帰るタクシー代すら、ソーサーの下に添えてあった。


✦つづく
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