【短】卒業〜新井かんなの場合〜

各務昴という男

「かんな!」
呼ばれて振り向けば、友人の飯田理子の姿があった。
「理子、声大きい」
「ごめんごめん、だってかんな私に気付いてもそのまま行っちゃいそうだったから」
群れるのが好きじゃない私にとって、理子は私を理解してくれる貴重な友人だ。
「教授に呼ばれてるの」
「また?最近多いね」
「なんでもない雑用を押し付けられてるだけ。卒業ギリギリまでこき使うつもりみたい」
じゃあね、と言って別れて、私は実験棟に向かう。

「失礼します」
化学研究室の扉を開ければ、そこには教授と数人の学生が各々の作業を進めている最中だった。
今日はいないんだ、と思っていると、すぐ真後ろから囁くように声をかけられる。
「新井さん。ごめんめ、邪魔だからどいてくれる?」
甘いテノールで邪魔だと言ってくる慇懃無礼なこの男。
助手の各務昴。
濡れたような黒髪に涼しげな目元、シュッと引き締まった鼻筋に、いつも人を小馬鹿にするかのように口元を緩ませている。
自分の容姿がいわゆるイケメンと呼ばれる部類に入ると自覚している者特有の所作、かといってそれが嫌味にはならず板についているから不思議だ。
キッと睨みながらも道を譲れば、彼はさらに口角を上げてこちらを見下ろしてくる。

「遅かったね」
「暇じゃないもんで。そちらこそ、今日はいないのかと思いました」
「それこそ暇じゃないんでね」

口を開けば可愛くないことばかり言ってしまうのも、この男相手では仕方ないと思っている。
この場所で同じ空気を吸うようになって2年と11ヶ月、私達はずっとそうやって過ごしてきた。
でもその白衣の下に隠された身体の体温を知っている。
形の良いアーモンドアイが、獲物を追い詰める時に見たこともないほど鋭くなることを知っている。
よく通る低めのテノールが、切羽詰まると掠れる事を知っている。

雨の中で、泣きそうになりながら笑うこの男の手を取ったあの日から、私はこの男に囚われている……
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