最後の旋律を君に
夕食後、律歌が自室で譜面を整理していると、突然ドアが勢いよく開いた。

「お姉ちゃん」

驚いて顔を上げると、そこには腕を組み、険しい表情をした響歌が立っていた。

「なんであんなすごい人にピアノを教えてもらってるの?」

律歌は一瞬言葉を選び、やがて静かに答えた。

「たまたま出会ったの。それだけ」

「たまたま? そんなわけないでしょ」

響歌は苛立ったように詰め寄る。

「お姉ちゃん、もうピアノはやめたんじゃなかったの?」

「……やめたつもりだった。でも、また弾きたいって思ったの」

律歌は真っ直ぐ響歌を見つめる。

「それが、いけないことなの?」

「……っ!」

響歌の顔がわずかに歪む。

「いけないことじゃないけど……」

そう言いかけて、彼女は唇を噛んだ。

「……お姉ちゃんは、ずっと私の影に隠れてたくせに。今さら、何よ」

「影に隠れてたわけじゃない。ただ……自信がなかっただけ」

「それが、なんで急に?」

響歌の声には、苛立ちだけじゃなく、どこか不安が混じっていた。

律歌は少しだけ笑った。

「奏希さんのピアノを聴いたら、もう一度弾きたいって思ったの。それだけ」

響歌は何かを言いかけたが、ぐっと飲み込む。

「……別に、私には関係ないし」

そう言って、くるりと背を向けた。

「響歌……?」

律歌が呼び止めようとしたが、響歌は足早に部屋を出ていく。

――響歌の態度には、明らかに動揺があった。

(響歌……本当はどう思ってるんだろう?)

響歌の小さな背中を思い浮かべながら、律歌はそっとピアノの鍵盤に手を置いた。
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