最後の旋律を君に
家の扉を開けた瞬間、律歌は深く息を吸い込んだ。

玄関を抜けてリビングに向かうと、響歌が先に入ってソファに腰を下ろしていた。

部屋は静かで、家族の姿は見当たらない。二人きり。

「……それで、話って?」

律歌は少し距離を取って立ったまま問いかける。

響歌は一瞬、視線を逸らし、小さく息を吐いた。

「……お姉ちゃん、さ」

響歌の声は、いつもと違っていた。まるで、何かを隠すように、震えているようにも聞こえる。

「ずっと私を恨んでたでしょ?」

律歌は一瞬、言葉を失った。

「え……?」

「だって、私はお姉ちゃんからピアノを奪ったもん」

響歌は小さく笑った。しかし、その笑顔にはいつもの明るさがなかった。

「お姉ちゃんは、私よりずっと先にピアノを始めてたのに……いつの間にか、私のほうが‘才能がある’って言われるようになって……」

律歌の心臓が強く締め付けられた。

(……響歌も、分かってたんだ)

律歌と響歌。姉妹なのに、あまりにも対照的な評価を受け続けた。

響歌は天才と称賛され、律歌はずっと比較されてきた。

「お姉ちゃん、ずっと辛そうだった。でも……私だって、ずっと怖かったんだよ」

響歌は拳をぎゅっと握りしめた。

「怖かった?」

「うん。お姉ちゃんがピアノをやめてくれたとき、ホッとした。でも……それと同じくらい、罪悪感があった。
 お姉ちゃんから大好きなピアノを奪ったのは私だから」

「……」

律歌は驚いたまま、言葉を継げなかった。

「だから……お姉ちゃんがもうピアノを弾かないように、私はわざと嫌なことを言ったり、邪魔したりしてた。
 そうすれば、お姉ちゃんが私を恨んでくれると思ったから」

「……!」

「お姉ちゃんが‘響歌のせいでピアノをやめた’って思ってくれたら、私は少しだけ楽になれる気がしたの」

律歌は胸の奥が痛くなった。

今まで響歌に傷つけられたこと、嫌がらせを受けたこと――それはすべて、憎しみや優越感からではなく、罪悪感からくるものだった。

「バカみたいだよね?」

響歌が自嘲するように笑う。

「私、お姉ちゃんのピアノ、ほんとはすごく好きだったのに……わざと嫌ったふりをしてた。お姉ちゃんがまた弾きたくなるのが怖かったから」

律歌は唇を噛みしめた。

響歌の気持ちを知って、どう受け止めればいいのか分からなかった。

「……それなら、どうして今さらこんな話をするの?」

震える声で問いかけると、響歌は小さく目を伏せた。

「奏希さんに教わりながら、ピアノを弾いてる時のお姉ちゃん、すごく楽しそうだった。
 私が邪魔しなくても、もうきっとピアノをやめないって思ったの」

響歌の瞳が揺れている。

「だから……もう、嫌がらせなんてしない。お姉ちゃんには、ピアノを弾いてほしい」

――響歌の言葉が、胸にじんわりと染み込んでいく。

(私が……また、ピアノを弾くことを、許してくれるの?)

信じられない気持ちと、こみ上げてくる涙を必死に堪えながら、律歌は静かに響歌を見つめた。
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