最後の旋律を君に

響く音、揺れる心

次の日、どうしても学校に行く気力が湧かなかった。
布団の中に閉じこもりたかったけれど、母に無理やり起こされ、無機質な時間の流れに身を委ねるように登校する。

だけど、授業の内容なんてまるで頭に入らない。
響歌の言葉が、何度も何度も脳裏をよぎって、私の心を締めつける。

――もう、ピアノなんて忘れたほうがいいよ。

「律歌?」

放課後の教室。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、不意に声をかけられた。

「……鈴子?」

私の親友、早坂鈴子が心配そうにこちらを見ていた。
クラスでも活発で、いつも明るく前向きな彼女。
だけど今は、その快活さをひとまず抑え、真剣な目をしている。

「最近、元気ないよね」
「……そんなことないよ」
「嘘。律歌がピアノを弾かなくなったって聞いた」

ピクリと肩が揺れる。
鈴子は、私がピアノをやめたことを知っていた。

「どうして?」

その問いに、答えられなかった。
響歌のこと。
あの夜のコンサート。
観客の言葉――全部。

鈴子なら、何も言わなくても、きっとわかってしまう。

「ねえ、律歌。ちょっとこれ、見てみて」

彼女がスマホの画面を差し出す。
映し出されていたのは、あるピアニストのコンサート情報だった。

――「高城奏希 ピアノリサイタル」

「これ……」
「今週末、うちの家族が行くんだけど、私もついていくの。律歌も一緒にどう?」

「……私が?」

「うん。律歌、奏希さんの演奏を聴いたことある?」

息をのむ。

高城奏希。

その名前は、何度か耳にしたことがあった。
高城財閥の御曹司でありながら、天才ピアニストとして世界的に名を馳せる人。

――でも、それは私とは関係のない世界の話。

「別に……私はいいよ」

小さく首を振る。
ピアノなんてもう関係ない。
聴いたところで、何にもならない。

「律歌」

鈴子の声が、優しくも、どこか強く響いた。

「本当に、ピアノをやめたいの?」

思わず、息を詰まらせる。

やめたいのか――。

答えなんて、わからない。

「別に……私は……」

自分でも、何を言いたいのかわからなかった。

鈴子は、そっと微笑む。

「いいから、行こう? 何もしなくてもいい。ただ、奏希さんの音を聴いてみて」

迷いながらも、鈴子が差し出したスマホの画面を見つめる。

――高城奏希。

この人の音を聴いたら、私は何か変わるのだろうか。
それとも、何も変わらないままなのだろうか。

答えの出ないまま、私は鈴子の手の中にある画面を、じっと見つめ続けていた。
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