最後の旋律を君に
コンサート当日。

私は鈴子とともに、重厚な造りのホールの前に立っていた。
大理石の床、煌びやかなシャンデリア、行き交う観客たちの洗練された雰囲気――。
そのすべてが、今の私には場違いに思えた。

「ほら、律歌! 行くよ!」

鈴子が私の手を引く。
私は小さく息をつき、彼女のあとに続いた。

ホールの扉を開けると、すでに大勢の人々が席についていた。
コンサートが始まる前の、静かなざわめき。
その中で、私たちは指定された席に腰を下ろした。
舞台の中央には、黒光りするグランドピアノが、静かに佇んでいる。

(本当に……来ちゃったんだ)

私は複雑な思いを抱えながら、じっと前を見つめた。
やっぱり、帰りたいかもしれない。
ピアノの音を聴くなんて、今の私にはただ苦しいだけなのに。

そんなことを考えているうちに、場内の明かりがゆっくりと落ちた。
ざわめきが静まり、客席全体に緊張が走る。

――そして。

舞台袖から、一人の青年が現れた。

(……!)

高城奏希。

彼は迷いのない足取りでピアノの前へと向かい、ゆっくりと腰を下ろした。
端正な顔立ちに、どこか儚げな雰囲気。
けれど、その瞳は驚くほど強く、揺らぎがない。

ホールが完全な静寂に包まれた、その瞬間――。

奏希さんの指が、鍵盤の上を滑るように動き出した。

――世界が、変わった。

最初の一音が響いた瞬間、全身が震えた。
柔らかく、それでいて確かな意志を持った音。
まるで語りかけるように、心の奥深くへと染み込んでくる旋律。

「……すごい」

思わず、かすれた声がこぼれた。

ピアノの音が、こんなにも人の心を揺さぶるなんて。
どうして、こんなにも優しく、それでいて切なく響くのだろう。
音が語る物語に、私は一瞬で引き込まれてしまった。

――ああ、これは……本物の音だ。

演奏が進むにつれて、私の胸の奥に沈んでいた感情が、ゆっくりと動き始めるのを感じた。
ずっと閉じ込めていた想い。
逃げたくて、忘れたくて、必死に蓋をしていた「好き」だった気持ち。

(……また、弾きたい)

ふと、そんな考えがよぎる。

だけど――すぐにかき消した。
無理だ。私は、響歌に勝てなかった。
観客に酷評され、自信を失った私は、もうピアノを弾く資格なんてない。

だけど。

奏希さんの音は、そんな私の心を、静かに溶かしていく。

曲が終わると、場内は一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手に包まれた。
私も、その拍手の中にいた。

「律歌……泣いてる?」

鈴子の声に、私はハッとする。
頬を伝う涙を、手の甲で拭った。

「……ううん、何でもない」

だけど、心はもう、何でもなくなんてなかった。

――奏希さんの演奏が、確かに私の中の何かを変えようとしていた。
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