最後の旋律を君に
コンサートが終わり、観客たちは満足げな表情で帰路につき始めていた。
それでも、私の胸の奥にはまだ演奏の余韻が残っていて、なかなか席を立つことができなかった。

ピアノの音が消えても、あの旋律は耳の奥に残ったままだった。
まるで心の奥深くに刻み込まれたみたいに。

「……律歌?」

隣にいた鈴子が、私の顔を覗き込んでくる。

「大丈夫?」

「……うん。ただ、すごかったなって……」

言葉にすると、その重みが少しだけ増した気がした。
高城奏希のピアノは、ただの演奏じゃなかった。
心を揺さぶり、内側にしまい込んでいた何かを浮かび上がらせるような音だった。

「でしょ? ほら、せっかくだから楽屋に挨拶行こう!」

「えっ!?」

突然の提案に、思わず大きな声が出る。

「何驚いてるの! 一流のピアニストって言っても、奏希さんはまだ高校生だよ? ファンサービスの時間くらいあるって!」

「そ、そういう問題じゃ……」

私は慌てた。
でも、鈴子は私の腕を引いて、関係者用の通路に向かってスタスタと歩き出す。

(えっ、待って、そんな簡単に行けるものなの!?)

戸惑っている間に、気づけばスタッフらしき人が立っている楽屋の前まで来ていた。
鈴子が慣れた様子で話しかけると、なんとあっさり通してもらえることに。
どうやら鈴子の家は音楽関係の仕事をしているらしく、そのコネのおかげらしい。

(そんなの、聞いてない……!)

深呼吸する間もなく、ノックの音が響く。

「どうぞ」

扉の向こうから聞こえたのは、思ったよりも落ち着いた、それでいてどこか柔らかい声。
スタッフが扉を開けると、そこにはカジュアルな私服姿の奏希さんがいた。
ステージ上とは違い、少しリラックスした雰囲気をまとっている。

「こんばんは、今日は素晴らしい演奏をありがとうございました!」

鈴子が元気よく頭を下げる。

「ありがとうございます」

奏希さんは静かに微笑んだ。
彼の声は、まるで音楽の余韻みたいに心に響く。

「あの……本当にすごかったです」

私もぎこちなく言葉を絞り出す。

すると、奏希さんは私をじっと見つめた。

「君……どこかで会ったことある?」

「え?」

思いがけない言葉に、私は戸惑ってしまった。

(……どこかで?)

そんなはずはない。
私はただの一般の高校生で、彼は一流のピアニスト。
交わるはずのない世界の人だ。

「ない……と思いますけど……」

「そう?」

奏希さんは少し考えるように視線を落とした後、ふっと微笑んだ。
けれど、その瞳の奥には、何か確信めいた光が宿っているように見えた。

「でも、なんとなく……知ってる気がするんだ」

「えっ?」

私はドキリとした。

知ってる気がする――?

まるで、私という存在を前から知っていたかのような言い方。
でも、そんなはずはない。

「ところで、君はピアノをやってるの?」

突然の質問に、私は一瞬息を呑んだ。

(なんで、そんなことを……)

胸がざわつく。
私がピアノを弾いていたことを、彼が知っているはずはないのに。

「……昔は、弾いてました」

それだけ答えるのがやっとだった。

すると、奏希さんはほんの少し、寂しそうな目をした。

「そうなんだ。でも、きっと今でも弾けるよね」

「……!」

その言葉に、心の奥が揺れる。

まるで「もう一度弾いてみなよ」と言われているようで、怖かった。

だけど、それ以上に驚いたのは、奏希の次の言葉だった。

「君、何歳?」

「えっ?」

「あ、ごめん、失礼だったかな」

「えっと……高校二年生です」

「ああ、やっぱり」

「やっぱり?」

「僕も同い年だから」

――同い年。

この圧倒的な演奏をする高城奏希が、私と同い年?

「……信じられない」

気づけば、小さく呟いていた。

「よく言われるよ」

奏希さんはクスッと笑った。
その笑顔は、コンサートの時の堂々とした雰囲気とは違って、どこか親しみやすかった。

だけど――
その親しみやすさの奥に、何かを隠しているような気がしてならなかった。

「君、本当に僕と会ったことない?」

「え……?」

再び投げかけられた問い。

ただの偶然なのか、それとも――

私は、何かに引き込まれるような感覚を覚えていた。
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