成瀬課長はヒミツにしたい【改稿版】
「ごめん。もう、時間だから……」

 しばらくして真理子はそう言うと、鞄を引っ張り出し、席を立とうとする。
 すると急に、卓也が真理子の手を強引にぐっと引いた。

「え?」

 真理子はよろけて、卓也の胸に手をつく。
 抱きしめられるような態勢になり、目の前に迫る卓也の顔に、真理子は頬を真っ赤にさせた。
 フロアの奥とはいえ、他の社員からも見える位置だ。

「ちょっと……離して」

 真理子は、慌てて掴まれた手を振りほどこうとするが、力が強くて逆らえない。
 卓也はさらに顔を近づけた。

「真理子さんを、行かせたくないって言ったら、どうします?」

 いつになく真剣な目で、卓也が顔を覗き込んでいる。

「もう、冗談やめて!」

 真理子はそう叫ぶと、力いっぱい卓也の胸をぐっと押し、無理やり手を振りほどいた。

「……お疲れさま」

 真理子は慌てて鞄を掴むと、フロアを駆けだした。
 横切る瞬間、ふと目線の端に映ったのは、卓也の悲しげな瞳だった。



 一人残された卓也は、デスクの上で小さく拳を握りしめる。

「成瀬課長も社長も……なんで、真理子さんなんだよ。……誰にも気がついて欲しくなかったのに。あの人の事、誰にも見せたくなかったのに」

 卓也はそうつぶやくと、真理子のデスクに置いてある王冠を、じっと見つめた。



「もう、卓也くんってば、何なのよ……」

 マンションに向かう歩道を歩きながら、真理子はまだ痛みの残る右手にそっと触れる。
 今まで卓也にはずっと、からかわれているだけだと思っていた。
 それなのに、真理子を『行かせたくない』と言った時の卓也の瞳は、余裕がない程に真剣だった。

「卓也くんの手、柊馬さんと全然違った……」

 真理子は、今までに何度も強引に触れられた、成瀬の大きな手を思い出す。
 卓也に抱きしめられて改めて気がついた。

「やっぱり……私は柊馬さんがいいんだ……」

 真理子は、はやる気持ちを抑えつけるように、マンションのインターホンを鳴らした。


「まりこちゃん!」

 乃菜がいつもと変わらない元気な声を出し、笑顔でドアを開けてくれる。

 ――社長と(おんな)じ笑顔。

 真理子はほっとした気持ちで膝に手を当てると、「こんばんは」と身体をかがめた。

「やっぱり来たか」

 すると、乃菜の後ろから低い声が聞こえ、真理子はドキッと顔を上げる。
 成瀬は腕まくりをしたエプロン姿で、キッチンの奥から現れた。

「今日は必要ないって言われてたんですけど、なんだか落ち着かなくって」

 真理子は妙にドキドキする心臓のまま、乃菜と手をつないでリビングへと入った。
 一歩部屋へ入った途端、溶けたチーズの香ばしい香りが鼻をつく。
 真理子はカウンターの奥のキッチンをそっと覗き込んだ。

「もうすぐ焼きあがるとこなんだ」

 成瀬はキッチンに戻ると、手早く棚からお皿を取り出す。
 もう何度も見ているこの光景を見つめながら、真理子はやはり成瀬と一緒に家政婦を続けたい、と思っていることを改めて実感していた。
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