あの桜の木の下で
池田屋事件からしばらくの時が経ち、新選組の名は京の街でさらに広まっていた。幕府の信頼を得たことで、新選組は以前にも増して多くの任務を担うようになり、新たな隊士の募集も行われることになった。

そして、その中には一際異彩を放つ男がいた。

「伊東甲子太郎——以後、お世話になります。」

屯所の広間で、彼はそう言って一礼した。

鋭い目つきに、理知的な物腰。口調こそ柔らかいが、その奥に秘められた自信と野心が垣間見える。

「これからは共に京の治安を守る同志として、尽力したいと思います。」

「うむ。」近藤さんは満足げに頷いた。「伊東先生の知識と剣の腕が加われば、新選組はさらに強くなるだろう。」

「お手並み拝見といこうじゃねえか。」土方さんが腕を組みながら言う。

「もちろんです。」伊東は静かに微笑んだ。「共に励みましょう。」



「春樹、どう思う?」

その夜、屯所の庭でそうちゃんが俺に問いかけた。

「……正直、まだわからねえ。」

伊東甲子太郎。確かに剣の腕も立つし、学問もある。だが、どうにも掴みどころがない男だ。

「でも、何かを隠している気がする。」

俺がそう言うと、そうちゃんも静かに頷いた。

「私もそう思う。でも……」

「でも?」

「近藤さんや土方さんが彼を受け入れた以上、私たちが疑うわけにはいかないよ。」

「……まあな。」

確かに、新選組は組織で動いている。隊士の判断より、上の決定が優先されるのは当然のことだった。

「けど、気をつけたほうがいい。」

そうちゃんはそう言って、俺をじっと見つめた。

「伊東さんは、私たちとは違う考えを持っている気がする。」

俺は彼女の言葉を噛み締めた。

新選組に、新たな風が吹き込まれた。

それが、嵐の前触れでなければいいのだが——。

伊東甲子太郎の入隊から数日が経った。彼は剣の腕だけでなく、文武両道の才を発揮し、新選組内部でも一目置かれる存在になりつつあった。

「伊東先生は本当に頭が切れるな。」

屯所の片隅で、何人かの隊士が噂しているのが聞こえてくる。

「剣の腕も一流だが、それ以上に戦略や幕府との交渉にも長けている。近藤さんや土方さんも信頼しているらしい。」

「ふん、理屈ばかりで戦場で役に立つかどうかはわからねえがな。」

俺は彼らの話を聞き流しながら、静かに稽古場を見つめた。

伊東は新しく入隊した隊士たちに剣術の指導をしていた。

「いいか、ただ力任せに斬るのではない。敵の動きを見極め、先の先を取ることが重要だ。」

冷静な口調で指導する彼の姿は、俺たち新選組の剣術とはまた違う流派を感じさせた。

「——春樹。」

そうちゃんの声が背後から聞こえた。

振り向くと、彼女は相変わらずの穏やかな表情を浮かべながらも、その目はどこか鋭さを帯びていた。

「どうした?」

「……伊東さんのこと、やっぱり気になる?」

「ああ。」

俺は正直に答えた。

「確かに剣の腕もあるし、頭も切れる。だけど、どうにも信用しきれねえ。」

「うん……私も。」

そうちゃんは小さく息をつく。

「近藤さんや土方さんが彼を認めている以上、隊の一員として受け入れなければいけない。でも……」

彼女は少し言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。

「彼は、新選組のやり方とは違う何かを考えている気がする。」

「……ああ。」

俺も同じことを感じていた。

伊東は剣を交えるときも、話をするときも、どこか俺たちとは異なる価値観を持っているように思える。

そして、その価値観がいつか新選組を揺るがすことになるのではないか——そんな気がしてならなかった。



「春樹、坂本龍馬って知ってるか?」

その夜、屯所の縁側で伊東が俺に話しかけてきた。

「坂本龍馬……か。」

知っている。いや、新選組にとっては決して無視できない名前だ。

「長州や薩摩と手を組み、幕府を倒そうとしている志士の一人だろ。」

「その通り。」

伊東は微笑んだ。

「だが、彼の考え方は決して間違ってはいない。」

「……何が言いたい?」

俺は伊東の目をじっと見つめた。

「幕府がこのまま続けば、日本は本当に良くなるのか?」

「……!」

俺は驚いた。

新選組の隊士である以上、幕府を守ることが当然の使命だ。それを疑問視するような発言は、普通の隊士ならば決して口にしない。

「伊東さん、お前——」

「私は、新選組がただの"剣"で終わるのは惜しいと思っている。」

伊東は静かに言った。

「この組織には力がある。しかし、その力をどのように使うかで未来は変わる。」

「……。」

俺は何も言えなかった。

伊東甲子太郎——この男は、やはり俺たちとは違う考えを持っている。

そして、その違いが、いずれ大きな波紋を生むことになるのかもしれない。

そう思わずにはいられなかった。
< 20 / 41 >

この作品をシェア

pagetop