歪んだ月が愛しくて2



紀田先生の言う通りだ。
割り切れてないのは、きっと俺だけ。
俺だけが過去に囚われたまま、いつまで経っても前を見ようとしていない。
頼稀もアゲハも「俺せいじゃない」と言ってくれているのに、卑怯で臆病な俺はその言葉を未だに受け入れられないでいた。



信じたいのに、信じられない。



本当、臆病で情けない自分が嫌になる。



「心が追いつかねぇならゆっくりでいい。でも自分を否定しながら生きるのはやめてやれ」



ゆっくりでいい?


本当に?




また、色んなことが頭の中を駆け巡る。

飲まれそうな勢いで。



「もう、自分で自分をイジメんなよ…」

「別に俺は…」

「見てるこっちが痛いっての」



頭上から降って来た慈しむような切なげな声に、紀田先生の腕の中から顔を上げた。
俺を包み込むように回されていた2本の腕はゆっくりと力を抜いて、俺の腰に軽く添えられた。



「俺もさ、見てみたいんだよ。あの文月を陥落させたとびっきりの笑顔ってやつを。でも今のお前にとってそれはテストで満点取るよりもっと難しそうだからな…。無理強いはしない。だからせめて前を向く努力をしろ。急ぎ必要はない。ゆっくりでいいから…」



この体勢…、紀田先生の喉仏が上下するのがよく見える。
甘ったるい声で迷える仔羊を導くような台詞をこんな至近距離から聞かされるなんて、知らない人が見たら勘違いされること間違いなしの状況だ。
それなのに不思議と振り解く気にはならなかった。
そればかりか紀田先生の腕の中は酷く心地良くて、この温もりにもう少しだけ浸っていたと思ってしまった。



ああ、似てる。

いや、思い出してしまった。



俺を抱き締める、兄ちゃんの温もりを。



「俺のことも、いつかは受け入れてくれよ…」



紀田先生は真剣な眼差しを俺から逸らすことなく、ゆっくりと顔を近付けて来た。



「先生…」



受け入れてくれって、どう言う意味だろう。
それは俺の台詞じゃないだろうか。
そんな短絡的な思考のまま紀田先生の瞳をじっと見つめ返す。
紀田先生の温もりと匂い、そして兄ちゃんを連想させる安心感。
それらは確かに俺が切望していたものとよく似ている。
でも、何かが違う。何かが足りない。
そんな欠落感が邪魔をして、俺は紀田先生を見つめたまま目を瞑ることが出来なかった。
次の瞬間、ガシャンッと凄まじい破裂音に肩が跳ねた。
咄嗟に紀田先生の胸を押して振り返ると、そこには足でドアを蹴破ったであろう会長が立っていた。
破壊されたドアは虚しくも修復不可能で廃棄するしかないだろう。



「また随分と派手にやったな…」



紀田先生の暢気な声に、ハッと我に返った。

呆けてる場合じゃない。



「か、会長っ、何で…」



何でそんなゴリラみたいな真似してんの?

散々人のことゴリラ扱いしたくせに人のこと言えないじゃん。



焦った口調とは裏腹に暢気な心情を悟られまいと固く表情を作る。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、会長は俺の手首を掴んで強引に紀田先生から引き離し、自身の腕の中に閉じ込めた。顔面から突っ込んだせいで地味に顔が痛い。
抗議しようと顔を上げた瞬間、俺の言葉は会長の唇によって飲み込まれた。
強引で力強い腕に抱き込まれ、噛み付くように口を覆われて息が出来ない。
その間、会長の舌が開いた唇の隙間から侵入して来て、突然のことに驚いた竦んだ舌へ強引に絡めて来る。



「…っ、んん……」



会長は抵抗する俺の手首を自身の右手で掴み、左手で俺の腰を力強く引き寄せる。
これ以上ないくらい距離を詰めて来たため、拒むことも押し返すことも出来なくて、俺は会長の腕をギュッと掴んで飲まれそうな感覚を堪えるしかなかった。
交わされた口付けの隙間からは喘ぎなのか、呻きなのか、どっちつかずの声が漏れる。



頭の芯が痺れる。



飲まれ…、



「散々言ったよな、手放す気はねぇって」

「…は、っ」



息も絶え絶えに、足に力が入らない。

唾液で光る自身の唇を舐めた会長は、酷く官能的で、まるで獣のようだった。



「ましてや“蝶”なんざに」



低い、低い声。

その矛先は俺ではなく、紀田先生に向けられていた。















「……どっから突っ込んでいいか分かんねぇけど、お前等ってそう言う関係?」



その台詞に固まっていた身体が息を吹き返す。


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