歪んだ月が愛しくて2
「テメーの目は節穴か?」
「あ?」
すぐ近くで会長の息遣いが聞こえて思わず眉を顰めた。
「“蝶”が送り込んだS?ハッ、そんな器用なことコイツに出来っかよ」
………え。
何を、言ってるの。
「バカみたいにお人好しなのが、コイツの長所だろう」
「………」
会長の言葉が理解出来ない。
聞きたいのに、聞き返せない。
会長の声があまりにも優しくて、少しでも声を出したら泣いてしまいそうだった。
「だから今更何と言われようと、いくら試されようと覇王の意思は変わらない」
誤魔化しのない真っ直ぐな言葉が、ずしんと重く圧し掛かる。
でも決して不快なものではなく、寧ろ心地良くて。
それが会長の本心だと願いたい。
でも信じたいのに信じられない自分が顔を出す。
信じて、信じてと、小さな子供が泣きながら喚く。
誰も見向きもせず、誰も子供の声に耳を傾けない。
いつしか子供は怖い怖いと声を押し殺しながら泣いて、そして誰も信じられなくなった。
その悪夢は決まって太陽のような優しい光に包まれた後にやって来る。
(“信じるな”と言いたいのか、それとも…)
「信じたい」と言う気持ちは「信じて欲しい」の裏返し。
想うだけなら簡単だ。でも自分の想いと同じだけの想いを返されないのは虚しくて、そんなことを繰り返していくうちに俺の心はバカになってしまった。
「奪わせねぇよ、誰にもな」
「っ、」
ギュッと、会長の腕が俺の身体をきつく抱き締める。
ああ、信じたいよ。
だから俺のことも信じて欲しいんだ。
俺の手を掴んでくれた、太陽に。
「……普通さ、そこまでするか?」
そう言って紀田先生は怪訝そうに眉を顰める。
「王様の戯れか?一時の相手にするには格別だろうが、傷付くのは立夏なんだぞ。誰でも良けりゃ俺がイイのを見繕ってやるぞ」
一時の相手?
あ、興味本位ってことか。
確かに最初は俺もそう思った。
だから彼等と深く関わらないようにしていた。
一時…とは言わないが、彼等の興味が削がれるまでと自分で期限を決めて、後悔しないように、傷付かないように、色々とセーブしていたのに、あんなこと言うから。
『立夏は、俺等の仲間だ』
いつの間にか制御出来なくなっていた。
俺を変えたのは紛れもなく彼等だ。
目が眩むほどの輝きを放つ、王様達だ。
それなのに、興味本位?
ズキンと、左胸が痛む。
「一時だと?冗談じゃねぇ」
風に乗ってシトラスの香りが鼻孔を擽る。
会長との密着度に改めて気付かされた。
(………何か、変だ)
いつも以上に心臓が煩い。
「誰でも良かったら野郎相手にあんな真似するかよ」
会長の顔が近付くのが分かる。
声が、吐息が、唇が、耳朶に直接触れる。
(何、だよ、これ…)
……ダメだ。
これ以上は、何かダメだ。
何かが足りないと思っていた。
何かが違うと思っていた、もの。
その正体が、これだ。
「……今更注文付けんのかよ。散々食い散らかしてたくせに贅沢言うんじゃねぇよ。どうでもいいだろう、顔も、中身も、後ろ盾も。お前にとっちゃここにいる全員が使い捨ての駒みたいなもんだろう。そんなお前が何駒一つにムキになってんだよ」
「よく分かってんじゃねぇか。だったらこれも分かんだろう、この俺がお前が言うその駒って奴にどうしてそこまで拘んのかも」
「………」
真意を確かめるような疑心に満ちた眼差しが会長に注がれる。
到底理解し難いものなのか、紀田先生は会長の質問返しに言葉を閉ざした。若しくはそれが答えなのか。
そんな答え難いものをあえて紀田先生の口から言わせようとしたのなら、やっぱり会長はお世辞にも性格が良いとは言えないようだ。敵が多いのも頷ける。紀田先生が言葉を噤んだ時に見せた意地の悪い笑みがそれら全てを物語っていた。
でも、安心感だけじゃ得られない感情に気付いてしまった。
兄ちゃんの時とは違う、それに…。
「どうでも良くねぇから、お前等と関わらせたくねぇんだよ」
何かが、崩れる音がした。