歪んだ月が愛しくて2
今更だが、ここはどこなのだろうか。
寝室と言うことだけは分かるが、俺の部屋ではない。
天蓋付きのベッドは明らかに大きさが違うし、枕やベッドマットの固さも違う気がする。壁紙も白ではなくクリーム色だし、何より寝室の規模がリビング並みに広かった。
その上、会長が運んでくれたことを考慮すると、恐らくここは会長の部屋なんだろう。
神代財閥の次期後継者で現役の生徒会長であれば、スイートルーム並みの部屋を与えられていても可笑しくはない。
「―――」
「―――」
ドアの向こうから聞こえる、微かな声。
会長と、女性の声…?
脳裏に過ったのは、屋上にいた2人の姿だった。
あの時の女性と同一人物なのかは分からない。
でも部屋に訪ねて来ると言うことは、きっと特別な関係に違いない。
会長の女関係が乱れているのは噂で耳にしたことはあったが、まさかこんな風に現実を突き付けられるとは思ってもいなかった。
(……何だろう、これ)
まるで崖下に突き落とされたような、どこまでも落ちていく失墜感。
目の前が真っ暗になって、心臓が張り裂けそうに痛かった。
こんなの知らない。
理解出来ない感情と、火照った身体のせいで考えが纏まらない。
「どうした?」
訝しげな声と共にベッドが沈んだ。
いつの間にか戻って来ていた会長は、手に持っていた四角い箱と部屋着のようなものをベッドの縁に置いて、自分もその横に腰を掛けると険しい表情で俺の顔を覗き込んだ。
「べ、つに…」
「気分が悪いのか?」
否定の意味を込めて左右に首を振る。
確かに気分は最悪だが、会長の言葉を否定したのは「どうした?」の部分についてだ。
考えが纏まらないものを口に出したところで何の意味もない。
だって、自分ですら分からないんだ。知りたいのは俺の方なんだよ。
「じゃあ何だ?怪我が痛むのか?」
「怪我なんてないよ。これは相手の…」
「左手首と左の頬」
「、」
「他にもないか確認する」
「え、いいよ、そんなの…。自分で出来るから」
「今のお前に自分でやらせたら適当に処置してそのまま放置するだろう。俺がやる」
「で、も…」
ドアの向こうが気になる。
さっきの女性は帰ったんだろうか。
もしまだドアの向こうにいるとしたら、早くここから出て行かないと。
疚しいことはないとは言え、流石に彼女と鉢合わせになるのは気まずいし変に誤解されても困る。
でもそれを何て伝えたらいいか…。
「触るぞ」
それなのに会長は俺の左手に触れて暢気に傷の手当てを始めた。
大した怪我じゃない。ただ手錠を嵌められていたため左手首の皮膚が擦れてそこから出血しており、左頬に関してはキスから逃れるために相手の舌を噛んだら逆上して殴られただけだ。こんなの気にするほどのことじゃないのに。
会長は四角い箱の中から濡れタオルを取り出して顔や手首の血を拭き取ると、消毒をしてから大きめの絆創膏を貼った。左手首だけは絆創膏の上からガーゼを巻かれ若干大袈裟な見た目となった。
俺は血で汚れた団服の上を脱いで上半身を晒すと、申告した場所以外の顔や身体にも切り傷や痣があったようで、その一つ一つの傷を丁寧に処置してくれた。
有難い反面、会長が俺の素肌に直に触れる度にむず痒い感覚が込み上げて来る。
「新しい服を用意した。着替えられるか?」
「うん…」
「辛いだろうが、ずっとそれを着てるよりはマシだろう」
一通り治療を終えると、会長がベッドの縁に置いてあった紺色の部屋着を俺の膝の上に置いた。
既に治療のため団服の上を脱いでいた俺はズボンと下着しか身に付けておらず会長の申し出は有難かった。
このまま血塗れの服でいるのは気持ち悪いし、もう手遅れではあるがいつまでもこんな汚い格好のまま会長のベッドにいるわけにはいかなかった。
気怠い身体に鞭打って会長に渡された服に袖を通す。
「…は……っ、」
衣服が肌に触れる感覚が苦しくて堪らない。
あの薬…、どんだけ効果長ぇんだよ。
浅い呼吸を繰り返して平常心を保つ。
「……大丈夫か?」
何とか時間を掛けて着替え終えた俺に、会長は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「へーき。おれ、もう大丈夫だから」
「待て。まだ立ち上がるな。今日はここで休んで行け」
「大丈夫だって。そこまで会長に、メーワク、掛けるわけには、いかないよ」
「大丈夫じゃねぇよ。お前、自分の状況分かって言ってんのか?立ってるのもやっとじゃねぇか」
「自分で何とか、する、から」
現にさっきだって何とかなった。
自分の部屋に戻るくらい楽勝だ。
「何とかって…、そんな状態のお前を1人で帰すわけねぇだろう。どうしても自分の部屋に戻るって言うなら俺が送る」
「だから、ほんと大丈夫なんだって。それより手当してもらって…、迷惑掛けて、ごめん」
「立夏、」
「詳しいことは明日話すから、今日は、もう…」
「………」
こうしている間にも身体中が熱くて頭がクラクラする。
会長に背を向けてベッドから降りようとした時、グイッと背後から肩を掴まれてベッドに逆戻りした。