歪んだ月が愛しくて2
ぺろりと、ヤエが口元の血を舐め取る。
妖艶なその仕草に一瞬だけ目を逸らした。
先程までの高揚感に似たものが再発しそうになったが、それをグッと堪えてゆっくりと顔を上げる。
どうやら血の匂いに反応したのは俺だけではないらしく、やけにギラギラした瞳が珍しく真剣な顔をして俺を見つめていた。
「んで、誰に付けられたんだよこれ?」
「……言っても分かんねぇよ。お前の知らねぇ奴なんだから」
「恐極か?」
「はぁ!?何でそこで月の名前が…、」
「あのメス豚ビッチが自分んとこの組員使ってテメーを風呂に沈めるつもりだったのは分かってんだよ。しかもテメーは自主的に媚薬まで飲んだらしいじゃねぇか。何考えてんだこのバカ」
「お前、何でそんなことまで…。あーはいはい、どうせ俺は考えなしのバカだよ。でも確かに薬は飲んだけど後遺症は残ってないし襲われてもないから。寧ろ返り討ちにしたし」
「当たりめぇだボケ。もし万が一、テメーに指一本でも触れてたらあの程度で済ませてやるはずねぇだろうが」
「ゆび、一本…」
「言っとくが、比喩でも冗談でもねぇからな」
「あ、はははっ…」
世の中には知らなくてもいいことってあるよね、うん。
会長にされたことは墓場まで持って行こう。
「恐極じゃねぇならテメーのオトモダチの誰かってことか…」
「オトモダチ?」
「ゲーセンで待たせてんだろう。ボーリング行って、飯食って、ハクの野郎の病院に顔出して、団体行動が嫌いなテメーにしちゃ随分頑張ってるじゃねぇか」
「はぁ…。お前こそ随分俺のケツ追っ掛けんのが好きみてぇだな。ストーカーですかこの野郎」
「あんな目立つ車でウロウロしてりゃ追っ掛けたくもなんだろうが」
「それだけじゃねぇだろう。誰かは知らねぇが、聖学に紛れ込ませた犬に俺のこと監視させてんだよな。だからお前はあのタイミングで恐極組に乗り込むことが出来たんだ」
「ああ、テメーのことはオトモダチから色々聞いてんぜ。テメーの本当の名前も、地味ぃなガリ勉野郎のふりしてんのも、面倒な連中に目付けられてんのも、ぜーんぶな」
「……だから、俺にスマホを捨てさせなかったのか?」
「はぁ?勘違いすんなよ。テメーにスマホを持たせたままなのはマジで生存確認のためだ。他意はねぇよ。それにテメーが聖学に通ってることはオトモダチに聞かされるまで知らなかったんだ。先回りして潜入させたわけじゃねぇし、そもそも監視させてるわけじゃねぇよ。何か変わったことがあれば報告しろって言ってあっただけだ」
「……お前のオトモダチとやらは俺のこと知ってんのか?」
「こっちからは何も教えてねぇよ。余計な詮索はすんなとも言ってある」
「そうか…」
そうは言っても大して当てにならないだろうな。
何せヤエのオトモダチだ。期待しないでおこう。
「まあいい。どこの馬の骨にマーキングされたか知らねぇが、この礼は何れたっぷりと返してやらぁ」
「……その前に、俺に言うことがあんだろうが」
「あん?……ああ、こんな素敵なプレゼントをありがとうってか?」
「ご・め・ん・な・さ・いだろうがこのバカ犬。あんま調子乗ってっとマジで頭かち割るぞコラ」
「そりゃこっちの台詞だ。テメーこそ誰彼構わず愛想振り撒いて後で痛い目見ても知らねぇからなボケ」
「はぁ?俺がいつ愛想振り撒いたんだよ?」
「知らぬは本人だけってこった。なあ、松田ぁ〜?」
「そのようですね」
「………意味不明」
不貞腐れて、天を仰ぐ。
自分だけ蚊帳の外で話が進んで行くのはいつものことだった。
本来なら居心地が悪いはずなのに、これが俺の日常だと教えてくれた彼等の笑い声に何とも言えない気持ちが込み上げる。
そんな俺を、夜空に浮かぶ月が冷たく見下ろす。
まるで、これから起こる出来事を予感するかのように、俺を嘲笑っていた。