隠れる夜の月

 ――どうして私は、誰の誘いにも応じる気になれないのか。
 わざわざ問うまでもなく、理由は心の奥ではっきりしている。

「……長倉先輩」

 声には出さず、名前をつぶやく。

 整った顔立ちと立ち姿。恵まれていることをまるで鼻にかけない、穏やかに笑うあの人。
 誰もが認める跡取りで、まっすぐな努力家。いずれ人の上に立つのが自然に違いない人。

 ――だから、望んではいけない。自分とは初めから住む世界が違う。

 万が一、気まぐれで関係が深まったとしても、長くは続けられない相手だ。
 恋人になることも、ましてや結婚なんて、絶対に望まない。

 けれど、いつか彼が、誰かと結婚したら。その時は……


 五年前の春。

 新卒でナガクラに入社し、一カ月の研修を経た後、営業一課に配属された。
 希望していた営業職ではなく、補佐役の営業事務で。

 ナガクラは老舗企業であるだけに、上層部には今も、古い価値観の人間が少なくないらしい。
 四代目社長は女性の営業職や役員採用を推進しているというが、先代の頃からの幹部が多い現状、社長だけで改革を進めるのは容易ではないらしかった。

 入社後の配属ですぐ営業職に就いた女性社員は長年ゼロ、と聞いていてもあきらめきれず、配属希望票に営業と書いて出した。結果はこの通りだけど、三花はまだ希望を捨てていない。
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