隠れる夜の月

「懲りないね、お母上も」
「今日は専務、休みじゃないだろ。何してんだよ」
「俺もコーヒー買いに来たの。秘書だからね、専務のお言いつけには従わないと」

 向山は気軽に言いながらも、ふと、鋭くした視線をこちらに向けた。

「で、直接見合いを勧められたけど誰とも会う気になれないって言ったのか?」
「……図星を突くな」
「そのくせ『跡取りとして何が正しいか』は認識してんだよな。それって矛盾してないか」
「矛盾?」
「自分は結婚する必要がある立場、って自覚はあるんだろ。次の跡取りのためにも。けど家が持ってくる縁談相手は気に入らない。矛盾ていうか、単なるワガママかもな」
「うるせえな」

 気安さから思わず毒づき、缶を手にしたまま、拓己は壁にもたれかかる。
 それ以上は言い返す気力もなく、廊下に反射する照明を見つめていると、向山が「なら」と言った。

「どうせワガママを言うなら、最後まで貫き通してみろよ」
「……どういう意味だ」
「おまえさ、瑞原さんのこと、ただの後輩とは思ってないだろ」

 コーヒー缶を持ち上げかけた拓己の腕が、止まった。
 缶の表面に映る自分の顔は滲んでいて、どんな表情をしているかよくわからない。

「こないだ彼女とぶつかった時――名前を呼んだ時の声とか間抜けな顔とか。予想外に綺麗になってて驚いた、って感じだったぞ」
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