隠れる夜の月

 いつ何があるか、などと言ったらしい母だが、拓己が知る限り健康上の問題を抱えているわけではない。むしろ、家族の誰よりも心身ともに頑健だと思う。
 そんな母が泣き落としのようなことを言ってまで急かすからには、おそらくはお気に入りのご令嬢だか娘さんだか、目星をつけた相手がいるに違いなかった。

 新たに生まれたため息を、今度は実際に口から吐く。
 ここで台紙を見ずにいたとしても、遠からず、母が直接持参してくるに違いない。一人暮らしのマンションか……どうかすると仕事場に。そんなことをされるぐらいなら、今おとなしく受け取っておく方がまだマシというものだ。

「承知しました。とりあえず受け取っておきます」
「すまんな」
「いえ」

 母の暴走を父に止めてほしい希望がなくもないが、こうと決めた時の彼女は、相手が誰であろうと譲らない。仮に父がきつく言ったところで、考えを翻しはしないだろう。
 そしてこの父が、実際には母を叱咤することなどめったにないことも知っている。家が決めた政略結婚ではあったというが、父は母にいまだベタ惚れなのだから。

 台紙の束を抱えて社長室を出た直後、社内に始業のチャイムが鳴り響いた。
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