隠れる夜の月
「おまえだって普通の男だろ。ちょっと家とか立場が特殊なだけで。好ましい、可愛いと思った女を好きになるのに、何の問題があるってんだよ」
瞬間、頭を殴られたような心地がした。
向山は「やれやれ」と言いたげなため息をつくと、「そろそろ戻らないとヤバいわ。じゃあな」と背を向け、去っていった。
拓己はその場に立ち尽くしていた。ようやく我に返り、温くなった缶コーヒーを口に運ぶ。だが、舌に感じる苦さも、喉を通る感触も、どこか鈍い。
――自分は、何を、どうしたいと考えているのか。
家名を繋ぐこと。母の期待に応えること。会社の将来を保障すること。
どれも、拓己に課せられている「役目」には違いない。
生まれた時からそう決められていた。周りもそう望んできた。
その、運命や期待を疎んじたり放り投げたりする気はない。どれだけ困難でも道を進んでいく気でいる。けれど。
瑞原三花を、同じ道に付き合わせることが、果たして正しいのか。
天真爛漫な笑顔。弁当を週一回とはいえ三年間作り続けてくれた、律義な真面目さ。
先輩、と拓己を呼ぶ時の溌溂とした、でも少しだけ照れたような、澄んだ声音。
その全部を彼女から奪ってしまうことになりはしないか。