隠れる夜の月
◆ ◆ ◆
階段を駆け下り、ちょうど来たエレベーターに飛び乗ってようやく、三花は詰めていた息を吐いた。
「……び、びっくりした……」
ひとりきりであるのを良いことに、驚きを言葉にして出す。
――とんでもないことを言われた。それも、立て続けに。
『俺の、子供を産んでくれる?』
『付き合ってほしい。結婚前提で』
……きっと、何かのはずみで出た言葉だ。
いっときの感情に流されただけ、あるいは責任感や親愛の情が行き過ぎたようなもの。
だって自分は、彼にとってはただの後輩。
教育係だったあの人の「教え子」にすぎない。
そう思おうとする一方で、拓己の真剣なまなざし、真摯で低い声音が、頭から離れなかった。
――あんなことを、冗談で言うような人ではない。
――けど、冗談でなかったら困る。
ふたつの思いが、三花の心と頭で行き来する。
(……本当は、信じたい。でも、信じた後で傷つくのが怖い)
あんなふうに、真っ直ぐに言われて素直に喜べるほど、三花は単純でもなければ強くもなかった。
拓己はこの会社の跡取り。十年後か二十年後かはわからないけど、いつか必ず社長になる人。
そんな人の隣にふさわしい、などと図々しいことは思えない。仮に三花や拓己が気にしないとしても、周りは確実に「不相応」だと思うだろう。特に、彼の母親などは。