隠れる夜の月
「電話番があるだろ」
「めったにかかってこないし、転送設定してあるから心配無用」
上着の内ポケットの位置を軽く叩いて向山は答える。そこにスマートフォンを入れているということだろう。
「呑気でいいな、そっちは」
「おまえはそうじゃないのか?」
「見てわかんないか?」
問い返すと、向山は面白そうに口の片端を上げた。
「またご母堂の差し金か」
「わかってんじゃないか」
そりゃなぁ、と言いながら拓己が下げた紙袋の中台紙および封筒の束を見やる。
拓己が創業家一族、社長の息子であることは特に秘匿されていないので、おそらく社員の誰もが承知している。結婚を急かす母についても、ここ数年は何かしらの口実で会社を訪れては拓己を呼びつけるという真似をしているから、重役以上の立場もしくは近しい位置にいる人間なら知っているに違いない。重役秘書および個人的友人である向山も、例外ではなかった。
「今度はどんなお嬢さん方?」
「まだ見てない」
社員用の個人ロッカー室があるフロアに行くため、エレベーターに乗り込む。向山も一緒に乗ってきたが、もはや気にしていない。