ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に
◇
あらためて車は蒼也のマンションへ向かう。
蒼也は、ずっと口をとがらせたままの翠を悟られないように横目で眺めていた。
――相変わらずだな。
その唇、まるでキスしろってせがんでるみたいだ。
幼い頃に初めて会った日のことは今でも覚えている。
忘れたことなどない。
ただ、その約束があまりにも幼すぎたせいで、大人になってから交際する理由として持ち出すには、かえって障害になっていたのだ。
また逆に、子どもの頃にそれほど親密でなかったことも、大人になってからもお互いを意識し続ける土台になっていたことも事実だ。
つかず離れず、かつ、遠慮し合う微妙な関係だったからこそ、二人の関係は炭火のように消えることなく続いてきたのだ。
だからこそ、勢いに任せてこんな形で進めることになってしまったわけだが、こうなった以上は後戻りはできないし、するつもりもない。
ずっと夢見てきた。
俺はこの日のために生きてきたんだよ、翠。
車が到着し、荷物を下ろす。
「俺が運ぶよ」
「大丈夫ですよ」
紳士的に手を差し伸べてみたものの、翠は自分でエントランスへ引きずっていく。
「ずいぶん大きなスーツケースにしたんだな」
「どれくらい必要か分からなかったので」
「もちろん、ずっといてくれていいんだぞ」
(偽装結婚なんて、それこそ『偽装』なんだからな)
「はあ、そうですか」
声のトーンが沈んでいるのは突然のことで戸惑っているのだろうと受け止め、蒼也は腫れ物に触るような気持ちで翠を部屋へ招き入れた。
「広いお部屋ですね」
淡々とした口調で室内を眺め、翠が窓に歩み寄る。
眼下には低層マンションなどが建ち並んだ住宅街が広がり、背骨のように高速道路が延びて、六月にはめずらしくその先には小さく富士山が見えた。
夏至近くで日はまだ高いが、夕方の時間帯だった。
「夕飯にはまだ少し早いですよね」と、翠がキッチンの様子を眺めている。
「そうだな。とりあえず、お茶でも入れようか」
「ちょっと先に冷蔵庫見ておいていいですか」
「もちろん、遠慮しないでくれ。なにしろ、もう君の家だからな」
「あれ?」
冷蔵庫を開けた翠が固まっている。
「どうした?」
「何も入ってないんですけど」
それは悠輝の冷蔵庫だった。
「ああ、それは悠輝が撮影用に持ち込んだやつなんだ。電源も入ってないだろ」
「撮影って、『即興バズレシピ』のですか?」
「そうなんだよ。あいつ、ここをスタジオとして使っててさ」
「じゃあ、私が住むと邪魔ですよね」
「そんなことあるわけないだろ」と、蒼也は声を張り上げた。「邪魔なのはあいつの方だ」