かんざし日和 ――恋をするのに遅すぎることなんかない

第二話 「大学教授」

「想定通りのシミュレーション結果だ」
 端末のディスプレイを前に、瑞原英敏は眼鏡の奥の目を細めた。大学の研究室。机の上には、積み重ねられたメモ用紙とコーヒーの空きカップ。室内は静まり返っており、時計の針がカチリ、カチリと進んでいる。

 彼は帝都大学の理学部で量子コンピュータの基礎研究を行う教授だ。細かい数式と複雑な理論に囲まれて生きてきた。人づき合いが苦手というわけではないが、研究以外に意識を向ける時間も、興味もあまり持てなかった。結果、気づけば五十五歳。独身のまま、大学の研究室と自宅を行き来する生活が当たり前になっていた。

 服装には無頓着で、今日もジーンズにシャツ、古びたツイードのジャケットを羽織っている。長身で、眼鏡と整えた顎髭が彼の唯一の“特徴”らしい特徴だった。

   ◇◇

 去年の健康診断で健康診断の数値が思わしくないと医師に言われた。食事、運動、睡眠時間――何か一つでも改善を、という助言に、英敏はまずは「食事」を改善することにした。外食やコンビニ弁当中心の生活で、食生活に問題があることは、自分でも薄々気づいていたからだ。

 塩分を気にするようになり、自炊するためスーパーに通うようになった。

 大学近くの『レッドマート』は、研究室の帰り道にあるという理由だけで選んだ店だった。

 最初はただの“食材調達”の場に過ぎなかった。しかし、ある日から、英敏の視線はレジの一角に自然と向かうようになった。

   ◇◇

 そこにいたのが――彼女だった。

 買い物かごを受け取る所作、明るい声、無駄のない手さばき。髪をすっきりとまとめ、サイドには存在感のあるかんざし。日によって変わるその装いが、なんとも言えないリズムを持っていることに、英敏は気づいてしまった。

――あの人、今日も違うのを挿してる。

 理屈では説明できない感覚だった。研究のように論理立てることも、因果を追うこともできない。ただ、「気になる」という感情が、彼の中で静かに、確かに広がっていた。
< 2 / 10 >

この作品をシェア

pagetop