冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
心を癒す場所へ
オフィスの照明がひとつずつ落とされていく夕刻、私は自分のデスクに残っていたコーヒーを片づけ、PCをシャットダウンした。
メールの送信はすべて完了。書類のファイリングも忘れずに。チェックリストに記された項目を一つひとつなぞるように、丁寧に終業準備を整えた。
少しだけ誇らしかった。
今日はミスがなかった。むしろ、自分なりに「うまくできた」と思える一日だった。
そして――
「今日の資料は、よかった」
専務のあのひと言が、まだ耳の奥に残っている。
直接的な笑顔や優しい言葉じゃない。でも、たしかに私に向けられた“肯定”だった。あの冷たい視線の奥に、私の努力を見てくれていた何かがあった。そのことが、じわじわと胸の奥を温かく満たしていた。
高鳴る鼓動と、ほんの少し火照った頬。私は会社の自動ドアをくぐった。
風が少し冷たい。でも、気持ちはどこか軽かった。
(このまま家に帰るの、もったいないな……)
そんな気持ちが、ふと芽生えた。
少しだけ、遠回りしたくなった。
行き先に迷ったまま乗り込んだ電車の中、私は気づけば、大学時代に通っていた最寄駅を目指していた。電車の窓に映る街の明かりが少しずつ流れていく。懐かしいホームのアナウンス、同じ看板のままの居酒屋、駅前の書店――そのすべてが、数か月前の記憶を鮮明に蘇らせた。
「……あのときも、夜だったな」
ぽつりと独り言が漏れた。
大学3年の冬。就職活動に行き詰まり、自分の進路に不安ばかりが募っていた頃、部活の練習終わりに一人でこの道を歩いた夜のことを思い出した。頬に触れた風の温度、誰にも相談できずにスマホを握りしめて、そして、ふと聞こえてきた声。
「がんばれーっ!」
それは、フェンス越しに響いてきた小さな声だった。
あの子の笑顔と声援は、誰よりも真っ直ぐで、純粋だった。
社会の理屈も評価の基準も関係なく、ただ「頑張る姿」を見て、応援してくれる人。
名前も知らない、顔をきちんと覚えているわけでもない。でも、心の奥にずっと残っていた。
歩くうちに、大学の敷地に近づいてきた。
坂道の途中、小さな交差点を抜けると、視界が開ける。
そこに――あのテニスコートがあった。
フェンスに囲まれた硬式用の赤茶けたコート。今はもう日が沈み、照明も落とされて誰の姿もない。ひっそりと静まり返っていて、まるで過去の記憶の中に足を踏み入れたような錯覚を覚える。
私は立ち止まり、コートのフェンスに手を添えた。
冷たい金属の感触が指先から伝わる。かすかにざらついていて、懐かしい。何度もこの網越しに外の景色を見た。走り込みのとき、声出しのとき、コーチに叱られたあと、ひとりで深呼吸をしたとき――そして。
「がんばれーっ!」
あの子がいたのも、ここだった。
保育園の園庭と隣り合うように位置するテニスコートの外側。コート横のベンチにちょこんと座って、ぎゅっと小さな手を握りしめながら、私たちを見ていたあの子。
時々、おやつを食べながら、時には保育士さんの影からこっそり手を振ってくれた。
「おねえちゃん、すごーい!」
一度だけ、私のスマッシュを見て、そう叫んでくれたことがあった。
頑張っている姿を“褒めて”もらえたのは、その子が最初だったかもしれない。
あの子の笑顔が、どれだけ支えになっていたか、今ならよくわかる。
――あの子、今どうしてるんだろう。
きっと、もう小学生になっているだろう。背も伸びて、髪型も変わって、きっと私がすれ違っても気づけないくらいに成長しているかもしれない。
だけど、今でもどこかで誰かに「がんばれー!」って声をかけてるのかな。
誰かのことを、あのまっすぐな瞳で応援しているのかな。
私はフェンスに額をそっと寄せて、目を閉じた。
夜の空気は、少しだけ甘く、土と木と、冷えた風の匂いが混ざっていた。どこか懐かしくて、心の奥がじんわりとあたたかくなる。
(私、ちゃんとがんばれてるかな)
心の中で、昔の自分に問いかける。
ミスを重ねて、自信をなくして、何度も泣きそうになって。誰にも頼れなくて、孤独の中で震えていたけれど――それでも、今、私は立ち止まっていない。
一ノ瀬専務に認めてもらいたくて、たった一言に心が救われて、前を向こうと決めた。
この仕事を、胸を張って「やっています」と言えるようになりたい。
フェンスの向こうに広がる無人のコートに、小さく笑いかける。
「また、頑張るね」
誰に言うでもなく、でも、確かに誰かに届いているような気がした。
いつか、あの子にまた会えたら――今度は私が、応援したい。
頑張ってるね、すごいね、って。あなたのその言葉が、私の未来を変えたんだよって。
そんな風に伝えられたら、きっと素敵だなと思う。
もう一度だけ、フェンスに手を添えて、私は深く深く、息を吸い込んだ。
冷たくて、やさしい、春の夜の空気。
胸いっぱいに吸い込んだそれが、少しだけ心の疲れを洗い流してくれた。
背を向けて歩き出すころには、さっきよりも足取りが軽くなっていた。
この場所は、今も変わらず、私の“心を癒す場所”だった。
メールの送信はすべて完了。書類のファイリングも忘れずに。チェックリストに記された項目を一つひとつなぞるように、丁寧に終業準備を整えた。
少しだけ誇らしかった。
今日はミスがなかった。むしろ、自分なりに「うまくできた」と思える一日だった。
そして――
「今日の資料は、よかった」
専務のあのひと言が、まだ耳の奥に残っている。
直接的な笑顔や優しい言葉じゃない。でも、たしかに私に向けられた“肯定”だった。あの冷たい視線の奥に、私の努力を見てくれていた何かがあった。そのことが、じわじわと胸の奥を温かく満たしていた。
高鳴る鼓動と、ほんの少し火照った頬。私は会社の自動ドアをくぐった。
風が少し冷たい。でも、気持ちはどこか軽かった。
(このまま家に帰るの、もったいないな……)
そんな気持ちが、ふと芽生えた。
少しだけ、遠回りしたくなった。
行き先に迷ったまま乗り込んだ電車の中、私は気づけば、大学時代に通っていた最寄駅を目指していた。電車の窓に映る街の明かりが少しずつ流れていく。懐かしいホームのアナウンス、同じ看板のままの居酒屋、駅前の書店――そのすべてが、数か月前の記憶を鮮明に蘇らせた。
「……あのときも、夜だったな」
ぽつりと独り言が漏れた。
大学3年の冬。就職活動に行き詰まり、自分の進路に不安ばかりが募っていた頃、部活の練習終わりに一人でこの道を歩いた夜のことを思い出した。頬に触れた風の温度、誰にも相談できずにスマホを握りしめて、そして、ふと聞こえてきた声。
「がんばれーっ!」
それは、フェンス越しに響いてきた小さな声だった。
あの子の笑顔と声援は、誰よりも真っ直ぐで、純粋だった。
社会の理屈も評価の基準も関係なく、ただ「頑張る姿」を見て、応援してくれる人。
名前も知らない、顔をきちんと覚えているわけでもない。でも、心の奥にずっと残っていた。
歩くうちに、大学の敷地に近づいてきた。
坂道の途中、小さな交差点を抜けると、視界が開ける。
そこに――あのテニスコートがあった。
フェンスに囲まれた硬式用の赤茶けたコート。今はもう日が沈み、照明も落とされて誰の姿もない。ひっそりと静まり返っていて、まるで過去の記憶の中に足を踏み入れたような錯覚を覚える。
私は立ち止まり、コートのフェンスに手を添えた。
冷たい金属の感触が指先から伝わる。かすかにざらついていて、懐かしい。何度もこの網越しに外の景色を見た。走り込みのとき、声出しのとき、コーチに叱られたあと、ひとりで深呼吸をしたとき――そして。
「がんばれーっ!」
あの子がいたのも、ここだった。
保育園の園庭と隣り合うように位置するテニスコートの外側。コート横のベンチにちょこんと座って、ぎゅっと小さな手を握りしめながら、私たちを見ていたあの子。
時々、おやつを食べながら、時には保育士さんの影からこっそり手を振ってくれた。
「おねえちゃん、すごーい!」
一度だけ、私のスマッシュを見て、そう叫んでくれたことがあった。
頑張っている姿を“褒めて”もらえたのは、その子が最初だったかもしれない。
あの子の笑顔が、どれだけ支えになっていたか、今ならよくわかる。
――あの子、今どうしてるんだろう。
きっと、もう小学生になっているだろう。背も伸びて、髪型も変わって、きっと私がすれ違っても気づけないくらいに成長しているかもしれない。
だけど、今でもどこかで誰かに「がんばれー!」って声をかけてるのかな。
誰かのことを、あのまっすぐな瞳で応援しているのかな。
私はフェンスに額をそっと寄せて、目を閉じた。
夜の空気は、少しだけ甘く、土と木と、冷えた風の匂いが混ざっていた。どこか懐かしくて、心の奥がじんわりとあたたかくなる。
(私、ちゃんとがんばれてるかな)
心の中で、昔の自分に問いかける。
ミスを重ねて、自信をなくして、何度も泣きそうになって。誰にも頼れなくて、孤独の中で震えていたけれど――それでも、今、私は立ち止まっていない。
一ノ瀬専務に認めてもらいたくて、たった一言に心が救われて、前を向こうと決めた。
この仕事を、胸を張って「やっています」と言えるようになりたい。
フェンスの向こうに広がる無人のコートに、小さく笑いかける。
「また、頑張るね」
誰に言うでもなく、でも、確かに誰かに届いているような気がした。
いつか、あの子にまた会えたら――今度は私が、応援したい。
頑張ってるね、すごいね、って。あなたのその言葉が、私の未来を変えたんだよって。
そんな風に伝えられたら、きっと素敵だなと思う。
もう一度だけ、フェンスに手を添えて、私は深く深く、息を吸い込んだ。
冷たくて、やさしい、春の夜の空気。
胸いっぱいに吸い込んだそれが、少しだけ心の疲れを洗い流してくれた。
背を向けて歩き出すころには、さっきよりも足取りが軽くなっていた。
この場所は、今も変わらず、私の“心を癒す場所”だった。