冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
冷たさの奥の優しさ
コピー機がうなる音が静かなフロアに響く。私はその前に立ち尽くしながら、まだ湿り気を帯びた資料を慎重に取り出していく。紙の角が揃っているか、色の濃淡にムラはないか、両面印刷の裏表が反転していないか――すべて目視で確認する。
チェック項目は、メモ帳にまとめたものをベースにしている。あの出来事から、私は“完璧な資料”を作ることに、これまで以上に神経を研ぎ澄ませていた。
――前回の会議。資料のページが抜けていた。
致命的なミスだった。でも、専務はそれを責めなかった。誰にも気づかれないように、静かにその場を整えてくれた。まるで風がそっと落ち葉を集めるように、無音で、自然に。私の手を借りず、私の名を出さず。
「次からは、ページチェックを“印刷後”に」
その言葉が、今も胸の奥に深く残っている。冷静で、乾いた口調。でもそこには、明確な“指導”があった。そして、それ以上の“感情”は見せない。
そんな人だった。一ノ瀬颯真という上司は。
私は彼を、ただの“難しい上司”だと思っていた。最初から期待もされず、名前すらまともに呼ばれない日が続いた。評価どころか、私という存在を「ただの使い捨て」として見ているのだと、そう思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
今朝も、私はいつも通り早めに出社し、提出用の資料を確認していた。時間のない中でミスを防ぐには、先に動くしかない。完璧じゃなくても、昨日より“マシ”になっていればいい。それが、私のささやかな信念だった。
その日、資料提出を終えて、部署の用事で別フロアへ向かう廊下。ちょうど角を曲がったところで、専務とすれ違った。
無言のまま通り過ぎるつもりだった。彼の前では、常に緊張が伴う。笑顔を作ることもできない。自然に振る舞うことなど、到底無理だった。だから私は、軽く会釈してそのまま歩き去ろうとした。
でもそのとき、すれ違いざまに、ふいに彼の低い声が耳に届いた。
「……今日の資料は、よかった」
一瞬、自分の鼓動の音が大きくなった気がした。まるで、心臓が音を立てて何かを告げてきたように。
私はその場で立ち止まってしまった。振り返ることもできず、ただその場に静かに立ったまま、背後を歩き去る足音を聞いていた。
(……え?)
幻聴じゃない。そう思いたい。でも、確かに言っていた。あの人が。冷たく、無関心を装い続けてきた専務が――私に。
「今日の資料は、よかった」
その言葉の意味を考えるより先に、胸が熱くなった。
嬉しい。信じられないくらい、嬉しかった。
初めてだった。正面から、好意的な評価をもらえたのは。
これまでの彼の態度からすれば、たったそれだけの一言ですら奇跡のようだった。しかも、誰かの前ではなく、ふたりきりの廊下で。誰の耳にも入らないようなタイミングで――それは、私だけに向けられた言葉だった。
足取りがふわりと軽くなる。まるで空気の密度が変わったように、歩く速度も、視界の明るさも変わって感じた。
(どうしよう、嬉しい……)
気持ちが溢れそうで、誰にも気づかれたくなくて、私は急いでトイレに向かった。個室に滑り込んで鍵を閉め、小さく深呼吸をする。指先が震えていた。唇に笑みが浮かんでしまい、それを隠すのに必死だった。
(落ち着いて、私)
手帳を取り出し、書く。震える手で、そっと。
《4月×日 一ノ瀬専務:「今日の資料は、よかった」》
《→印刷・綴じ・内容すべてチェックOKだった。評価されたかもしれない》
ほんの数行。でも、その文字を何度も見返す。
“かもしれない”と、自分にブレーキをかけるために、あえて最後の一文には迷いを残した。期待しすぎてはいけない。好意だなんて思ってはいけない。きっと、ただの“業務評価”だ。
でも、それでも。
私のことを見てくれている――そう思えたのが、たまらなく嬉しかった。
午後の仕事中、ふと彼のデスクを目にした。相変わらず、無表情にモニターを睨んでいる。誰とも無駄な会話をせず、必要最低限の指示しか出さないその姿は、いつも通りの“氷のような上司”だった。
でも、私には知っている。ほんの一瞬だけ、その氷の奥に隠れた、わずかな熱。
誰にも気づかれない優しさ。冷たいフリをして、静かに差し出してくれる配慮。
あれは、幻じゃない。
(私……)
自然と、目が彼を追っていた。書類を渡すときの手の動き、資料を受け取ったときの小さなうなずき。コーヒーに手を伸ばす指の節。すべてが、妙に視界に飛び込んでくるようになっていた。
そして気づく。
私はもう、この人のことをただの“上司”として見ていない。
少しだけ、他の誰よりも、その視線をもらえるのが嬉しいと感じてしまっている。
声をかけられたら嬉しくて、褒められたら泣きそうになるほど嬉しくて。
「……ダメだってば」
小さく呟く。誰にも聞こえないように。
でも、その言葉のあとに、笑みがこぼれるのを止められなかった。
チェック項目は、メモ帳にまとめたものをベースにしている。あの出来事から、私は“完璧な資料”を作ることに、これまで以上に神経を研ぎ澄ませていた。
――前回の会議。資料のページが抜けていた。
致命的なミスだった。でも、専務はそれを責めなかった。誰にも気づかれないように、静かにその場を整えてくれた。まるで風がそっと落ち葉を集めるように、無音で、自然に。私の手を借りず、私の名を出さず。
「次からは、ページチェックを“印刷後”に」
その言葉が、今も胸の奥に深く残っている。冷静で、乾いた口調。でもそこには、明確な“指導”があった。そして、それ以上の“感情”は見せない。
そんな人だった。一ノ瀬颯真という上司は。
私は彼を、ただの“難しい上司”だと思っていた。最初から期待もされず、名前すらまともに呼ばれない日が続いた。評価どころか、私という存在を「ただの使い捨て」として見ているのだと、そう思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
今朝も、私はいつも通り早めに出社し、提出用の資料を確認していた。時間のない中でミスを防ぐには、先に動くしかない。完璧じゃなくても、昨日より“マシ”になっていればいい。それが、私のささやかな信念だった。
その日、資料提出を終えて、部署の用事で別フロアへ向かう廊下。ちょうど角を曲がったところで、専務とすれ違った。
無言のまま通り過ぎるつもりだった。彼の前では、常に緊張が伴う。笑顔を作ることもできない。自然に振る舞うことなど、到底無理だった。だから私は、軽く会釈してそのまま歩き去ろうとした。
でもそのとき、すれ違いざまに、ふいに彼の低い声が耳に届いた。
「……今日の資料は、よかった」
一瞬、自分の鼓動の音が大きくなった気がした。まるで、心臓が音を立てて何かを告げてきたように。
私はその場で立ち止まってしまった。振り返ることもできず、ただその場に静かに立ったまま、背後を歩き去る足音を聞いていた。
(……え?)
幻聴じゃない。そう思いたい。でも、確かに言っていた。あの人が。冷たく、無関心を装い続けてきた専務が――私に。
「今日の資料は、よかった」
その言葉の意味を考えるより先に、胸が熱くなった。
嬉しい。信じられないくらい、嬉しかった。
初めてだった。正面から、好意的な評価をもらえたのは。
これまでの彼の態度からすれば、たったそれだけの一言ですら奇跡のようだった。しかも、誰かの前ではなく、ふたりきりの廊下で。誰の耳にも入らないようなタイミングで――それは、私だけに向けられた言葉だった。
足取りがふわりと軽くなる。まるで空気の密度が変わったように、歩く速度も、視界の明るさも変わって感じた。
(どうしよう、嬉しい……)
気持ちが溢れそうで、誰にも気づかれたくなくて、私は急いでトイレに向かった。個室に滑り込んで鍵を閉め、小さく深呼吸をする。指先が震えていた。唇に笑みが浮かんでしまい、それを隠すのに必死だった。
(落ち着いて、私)
手帳を取り出し、書く。震える手で、そっと。
《4月×日 一ノ瀬専務:「今日の資料は、よかった」》
《→印刷・綴じ・内容すべてチェックOKだった。評価されたかもしれない》
ほんの数行。でも、その文字を何度も見返す。
“かもしれない”と、自分にブレーキをかけるために、あえて最後の一文には迷いを残した。期待しすぎてはいけない。好意だなんて思ってはいけない。きっと、ただの“業務評価”だ。
でも、それでも。
私のことを見てくれている――そう思えたのが、たまらなく嬉しかった。
午後の仕事中、ふと彼のデスクを目にした。相変わらず、無表情にモニターを睨んでいる。誰とも無駄な会話をせず、必要最低限の指示しか出さないその姿は、いつも通りの“氷のような上司”だった。
でも、私には知っている。ほんの一瞬だけ、その氷の奥に隠れた、わずかな熱。
誰にも気づかれない優しさ。冷たいフリをして、静かに差し出してくれる配慮。
あれは、幻じゃない。
(私……)
自然と、目が彼を追っていた。書類を渡すときの手の動き、資料を受け取ったときの小さなうなずき。コーヒーに手を伸ばす指の節。すべてが、妙に視界に飛び込んでくるようになっていた。
そして気づく。
私はもう、この人のことをただの“上司”として見ていない。
少しだけ、他の誰よりも、その視線をもらえるのが嬉しいと感じてしまっている。
声をかけられたら嬉しくて、褒められたら泣きそうになるほど嬉しくて。
「……ダメだってば」
小さく呟く。誰にも聞こえないように。
でも、その言葉のあとに、笑みがこぼれるのを止められなかった。