冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
叱られても、立ち向かう気持ち
「これ、見直した?」
冷たい声が背後から落ちてきた瞬間、心臓が跳ねるように脈打った。私はすぐにモニターに目を戻し、開いていた資料を確認する。何度も見返したつもりだった。何度も、慎重に、チェックしたつもりだった。
けれど、一ノ瀬専務の指摘は、またしても的を射ていた。
「この数字、前回のとズレてる。比較資料をつけるなら整合性を見ろ」
「……申し訳ありません。すぐ修正します」
言葉が喉に引っかかるように重たくて、かろうじて声に出せた。心がぎゅっと痛む。周囲の視線が一瞬、こちらに集まるのを感じた。見られている、聞かれている。そんな空気が、肌にぴりぴりと突き刺さっていく。
一ノ瀬専務はそれ以上何も言わず、手元のファイルを閉じると、静かに会議室を後にした。
残された私は、まるでそこに“失敗”という形だけを置いてきたような気がして、肩を落としたまま動けずにいた。胃のあたりがずっと重くて、胸の奥が苦しくなる。呼吸も浅くなって、冷静なふりをしていた指先がわずかに震えていた。
(また……怒られた)
原因は、前回の資料との数字の整合性。たったそれだけ。けれど、それがどれだけ重要かは、社会人として痛いほど理解している。特に、一ノ瀬専務のように完璧を求める上司のもとでは、ほんの数値のズレひとつでも信頼を失うきっかけになりかねない。
わかってる。だからこそ、余計に自分が情けなかった。
昼休み。食堂に行く気にもなれず、私は書庫の隅のスペースでコンビニサンドイッチを片手に時間を潰していた。誰にも会いたくなかった。誰とも目を合わせたくなかった。
バッグに入れていたハンカチを取り出して、目元をそっと押さえる。涙がこぼれるほどじゃないけれど、今にもこぼれそうなその一歩手前で堪えている自分がいた。
「向いてないのかな……」
そう思うことは、一度や二度じゃない。社会人になって、まだほんの数週間。でもその数週間で、私はいくつの“できなかった”を積み重ねただろう。
だけど、辞めたいとは思わなかった。不思議なくらいに。
たぶん、逃げるのが怖かったのだ。今ここで諦めてしまえば、何かをずっと引きずる気がして。
午後、会議の準備を整えて一ノ瀬専務のデスクへ資料を届けに行く。
私の手からファイルを受け取った彼は、一瞬だけ目を通し、そのまま机に置いた。そして、顔を上げずに、ぽつりと漏らす。
「……まあ、昨日よりはマシ」
その言葉に、私は一瞬、時が止まったような感覚にとらわれた。
顔は見えなかった。相変わらずの無表情だった。だけど、その声には、ほんのわずかに“認める”というニュアンスが込められていたように感じた。
「……ありがとうございます」
絞り出すようにそう言って、私は深く頭を下げた。背中が熱くなる。嬉しいのか、悔しいのか、自分でもよくわからない感情が胸の奥を押し上げてきた。
ただ――たしかに今、私の努力が“届いた”のだと思えた。
いつも冷たい言葉ばかりの専務。一度だって笑顔を見せたことはない。褒められたことなんて一度もなかった。でも、「昨日よりはマシ」と言われただけで、こんなにも胸が熱くなるなんて。
見てくれている。
ずっと見下されているとばかり思っていた。最初から期待されていないと突き放されたような言葉を真に受けて、何もかもが怖くなっていた。でも違った。ちゃんと見ていた。少しずつでも、前に進んでいることを、確かに見てくれていた。
私は、深く深く呼吸をして、胸の奥のもやを吹き飛ばすように背筋を伸ばした。
完璧にはなれない。すぐに結果を出せるほど優秀でもない。でも、やり続けることならできる。小さな成長を、毎日ひとつずつ積み重ねていくことなら、私にもできる。
(私は、まだここにいられる)
そう思えたその一瞬が、今日の自分を支えてくれた。
帰り道。昼間の重たい気持ちは、すっかり消え去ってはいなかったけれど、少しだけ足取りが軽くなっていた。顔を上げると、ビルの間から見える夕焼けが、ほんのりと橙色に染まっている。
明日もまた、叱られるかもしれない。失敗するかもしれない。
でも。
その言葉がある限り、私はまた頑張れる。
「……まあ、昨日よりはマシ」
それだけで、私は救われた。
冷たい声が背後から落ちてきた瞬間、心臓が跳ねるように脈打った。私はすぐにモニターに目を戻し、開いていた資料を確認する。何度も見返したつもりだった。何度も、慎重に、チェックしたつもりだった。
けれど、一ノ瀬専務の指摘は、またしても的を射ていた。
「この数字、前回のとズレてる。比較資料をつけるなら整合性を見ろ」
「……申し訳ありません。すぐ修正します」
言葉が喉に引っかかるように重たくて、かろうじて声に出せた。心がぎゅっと痛む。周囲の視線が一瞬、こちらに集まるのを感じた。見られている、聞かれている。そんな空気が、肌にぴりぴりと突き刺さっていく。
一ノ瀬専務はそれ以上何も言わず、手元のファイルを閉じると、静かに会議室を後にした。
残された私は、まるでそこに“失敗”という形だけを置いてきたような気がして、肩を落としたまま動けずにいた。胃のあたりがずっと重くて、胸の奥が苦しくなる。呼吸も浅くなって、冷静なふりをしていた指先がわずかに震えていた。
(また……怒られた)
原因は、前回の資料との数字の整合性。たったそれだけ。けれど、それがどれだけ重要かは、社会人として痛いほど理解している。特に、一ノ瀬専務のように完璧を求める上司のもとでは、ほんの数値のズレひとつでも信頼を失うきっかけになりかねない。
わかってる。だからこそ、余計に自分が情けなかった。
昼休み。食堂に行く気にもなれず、私は書庫の隅のスペースでコンビニサンドイッチを片手に時間を潰していた。誰にも会いたくなかった。誰とも目を合わせたくなかった。
バッグに入れていたハンカチを取り出して、目元をそっと押さえる。涙がこぼれるほどじゃないけれど、今にもこぼれそうなその一歩手前で堪えている自分がいた。
「向いてないのかな……」
そう思うことは、一度や二度じゃない。社会人になって、まだほんの数週間。でもその数週間で、私はいくつの“できなかった”を積み重ねただろう。
だけど、辞めたいとは思わなかった。不思議なくらいに。
たぶん、逃げるのが怖かったのだ。今ここで諦めてしまえば、何かをずっと引きずる気がして。
午後、会議の準備を整えて一ノ瀬専務のデスクへ資料を届けに行く。
私の手からファイルを受け取った彼は、一瞬だけ目を通し、そのまま机に置いた。そして、顔を上げずに、ぽつりと漏らす。
「……まあ、昨日よりはマシ」
その言葉に、私は一瞬、時が止まったような感覚にとらわれた。
顔は見えなかった。相変わらずの無表情だった。だけど、その声には、ほんのわずかに“認める”というニュアンスが込められていたように感じた。
「……ありがとうございます」
絞り出すようにそう言って、私は深く頭を下げた。背中が熱くなる。嬉しいのか、悔しいのか、自分でもよくわからない感情が胸の奥を押し上げてきた。
ただ――たしかに今、私の努力が“届いた”のだと思えた。
いつも冷たい言葉ばかりの専務。一度だって笑顔を見せたことはない。褒められたことなんて一度もなかった。でも、「昨日よりはマシ」と言われただけで、こんなにも胸が熱くなるなんて。
見てくれている。
ずっと見下されているとばかり思っていた。最初から期待されていないと突き放されたような言葉を真に受けて、何もかもが怖くなっていた。でも違った。ちゃんと見ていた。少しずつでも、前に進んでいることを、確かに見てくれていた。
私は、深く深く呼吸をして、胸の奥のもやを吹き飛ばすように背筋を伸ばした。
完璧にはなれない。すぐに結果を出せるほど優秀でもない。でも、やり続けることならできる。小さな成長を、毎日ひとつずつ積み重ねていくことなら、私にもできる。
(私は、まだここにいられる)
そう思えたその一瞬が、今日の自分を支えてくれた。
帰り道。昼間の重たい気持ちは、すっかり消え去ってはいなかったけれど、少しだけ足取りが軽くなっていた。顔を上げると、ビルの間から見える夕焼けが、ほんのりと橙色に染まっている。
明日もまた、叱られるかもしれない。失敗するかもしれない。
でも。
その言葉がある限り、私はまた頑張れる。
「……まあ、昨日よりはマシ」
それだけで、私は救われた。