冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

会議でのミス、フォローされて

「よし……間に合った」

最後の資料をコピー機から引き抜きながら、小さく息を吐く。会議の開始まであと十五分。急ぎ足でホチキスを止め、綴じた紙をチェックしてクリアファイルに差し込んでいく。

今日は午前十時から、社内の戦略会議が行われる日だった。役員数名が参加する重要な会議で、私はその準備を任されていた。資料の印刷、配布、出席者分の名札と座席配置。事前確認も何度も繰り返した。

(大丈夫。ちゃんとチェックした……つもり)

それでも、胸の奥の不安は消えなかった。

私は手早くファイルをトレーに乗せ、会議室へと向かう。扉を開けると、すでに数名の役員が集まり始めていて、緊張感のある空気が流れていた。

「失礼します。資料、お持ちしました」

一礼してから、出席者の前に資料を配り始める。専務席に近づくと、一ノ瀬専務がすでに静かに着席していた。目が合うことはなく、彼は手元のスマホに視線を落としたままだった。

いつものこと。気にしないようにしよう。私は無言でファイルを置き、次の役員席へ移ろうとした、そのときだった。

「……これ、ページ抜けてるな」

その声が聞こえた瞬間、心臓がぎゅっと縮こまった。

声の主は、常務だった。手にしていた資料をぱらぱらとめくりながら、不機嫌そうに眉をひそめている。私は思わず立ち止まり、自分の手元にある予備のファイルを確認した。

(うそ……)

確かに、8ページ目が抜けている。印刷ミスか、私のミスか。どちらにしても、この場でそんなことは関係ない。問題は、“今ここに”完璧な資料が揃っていないということ。

(どうしよう……)

息が詰まりそうだった。すぐにコピーし直して持ってくるべきか。でも、会議の開始まではあと五分。間に合うかどうか分からない。

周囲の空気がわずかにざわつき始めた。誰も口には出さないが、何となく「新人秘書の失敗か」と言わんばかりの視線が集まりかけていた、そのとき。

「常務、その資料、僕のと取り違えたかもしれません」

静かに、けれどはっきりとした声が響いた。

振り向くと、専務――一ノ瀬颯真が、資料を差し出していた。彼の分は完璧な状態で揃っている。そして、そのまま、すっと自分の資料と常務のものを入れ替えた。

「こちらをご覧ください。該当ページはここにあります」

常務は少し驚いたような表情を浮かべたが、「そうか」とだけ呟いて、資料を読み始めた。

私はそのやり取りを、息を呑むように見つめていた。

取り違えなんてしていない。間違いなく、私のミスだ。だけど専務は、それを一切指摘せず、自分の資料を差し出すことで状況を穏やかに収めた。まるで最初から予定されていた行動のように、自然で、冷静で、何より“誰にも気づかれないように”。

会議はそのまま、何事もなかったかのように進んでいった。

私は配膳用の湯を準備しながら、胸の奥がずっとざわざわしていた。感情の名前が、うまく言葉にできなかった。ただ、あの一瞬に――助けられた、と思った。

(どうして……)

あの一ノ瀬専務が。冷たくて、無表情で、言葉を選ばない人が。私のミスを、咄嗟にカバーしてくれた。

しかも、誰にも分からないように。

誰かにいい顔をするためではなく、見返りを求めてでもなく、ただその場を整えるためだけに。

会議が終わり、役員たちが退出していく中、私はトレーを片づけながら、一ノ瀬専務のデスクへ資料の回収に向かった。少しでもお礼が言えたらと思ったけれど、彼は既にパソコンに向かっていた。

声をかけるタイミングが見つからず、私はそっと資料をまとめて退出しようとした。そのときだった。

「次からは、ページチェックを“印刷後”に」

彼はモニターから目を離さないまま、低い声でそう言った。責めるでも、叱るでもない。ただ、指摘。事実の確認。

「……はい。すみません」

声が小さくなる。でも、同時に胸の奥がじんわりと熱くなる。

怒られなかったからじゃない。

“見てくれていた”と分かったから。
私のミスにも、努力にも、どちらにもきちんと気づいていたことが、わずかな言葉の中に込められていたから。

自席に戻ると、すぐにメモ帳を開いた。

《会議資料のページ抜け→専務が常務に差し出してフォロー(誰にも気づかれないように)》
《印刷後のチェックを、今後は必ず自分の目で確認する》
《助けられた。でも、次は、助けられないようにしたい》

そう書きながら、胸の奥にじわりと広がっていた温かな気持ちを、そっとノートの片隅に閉じ込めた。

もしかしたら、ほんの少しだけ、私は認められたのかもしれない。

いや、違うかもしれない。でも、それでもいい。

あの人の期待に、少しでも応えたい。
その気持ちが、またひとつ、私の中で確かに芽生えた瞬間だった。
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