歪んだ月が愛しくて3



◇◇◇◇◇





「結局、リリーに泣き付く羽目になってしまったの…」



空になったティーカップをソーサーに戻して、衛はポツリと独り言を漏らす。
その独り言に衛の背後に立つ田中が反応する。



「立夏様だからこそ大切なお孫様をお任せになったのではありませんか?」

「リリーだからこそ、か…。そうかもしれんな。儂も彼奴らのように無意識の内にリリーの心に負荷を掛けてるってことか。その重荷を取り除いてやりたくてここに連れて来たと言うのに…」



田中はティーポットを手に持ち、衛の横から空になったティーカップに紅茶を注いでいく。
ふと立夏の前に出したティーカップに視線がいく。
一度も手を付けられなかったそれは立夏の心情を表しているように思えた。
紅茶通の衛の影響で立夏が幼い頃から紅茶を嗜んでいたことは田中の記憶に鮮明に残っていた。
まだ幼い少年が背伸びして大人の真似事をする姿に当時を知る者は愛らしさと歯痒さに少なからず一度は心臓を撃ち抜かれたことだろう。当然の如く田中は立夏が神代家を訪問する度に撃ち抜かれていた。
神代家当主の専属執事である田中は屋敷の内外に限らず常に当主と行動を共にする存在故、当主の趣味趣向に敏感なところがあった。いつだって当主の好き嫌いに合わせて生きて来た。いつしか田中の好き嫌いは当主と完全に一致していた。そのため当主の立夏に対する並々ならぬ愛情と同様のものを田中自身も長年抱いていたのだ。
それ故、立夏の重荷を少しでも取り除いてやりたいと言う衛の気持ちも十分過ぎるほど理解していた。



「私は立夏様に未空坊ちゃんを委ねられた大旦那様のご判断は正しかったと思います。きっと立夏様ご自身がそれを証明して下さることでしょう。立夏様の重荷を取り除いて差し上げるのはそれからでも遅くはないかと。何より立夏様ご自身が望んでいることですから」

「未空の傍にいることをか?」

「少なくとも今、立夏様のお心を占めているのは未空坊ちゃんの存在だと思います」



田中には疑う余地がなかった。
自身の生涯を捧げて仕えて来たたった1人の主人が愛してやまない稀有な存在を。
気難しい主人が心を許した人間だから、だけではない。田中自身もまた“藤岡立夏”の存在に救われた1人だからこそ立夏の力を高く評価していると同時に絶大な信頼を寄せていた。
「立夏様なら何とかしてくれる」と漠然とした期待ではあるが、そこに一切の不安は存在しなかった。それは衛も同じだった。



「ふむ、未空の奴、リリーの心を独占するとは中々やるの。こりゃ儂もうかうかしておれんわ」

「そこは尊坊ちゃんのご心配をされるところではございませんか?」

「だぁれがあんな愚孫の心配なんぞするか。そんなに欲しけりゃ自力でモノにしてみろ。彼奴が自分から行動を起こさなければ儂は未空を推すぞ。尊にはその辺のアバズレを適当に当てがって置けばいい。どうせ18になったら嫌でも婚約発表を控えとるんだからな」

「そんな心にもないことを」

「フン、いつまでも悠長にしてるからじゃ。時間がないと言うのに…。その点まだ時間のある未空の方が有利かもしれんな。お主はどう思う?」

「全ては立夏様のお心次第かと。お2人に限らず、また時間の有無は関係なく立夏様のお心を射止めたただ1人だけが立夏様に愛される権利があるのだと私は思います」

「あの2人に限らず、か…。確かにリリーにも選ぶ権利があるからな。まあ、彼奴らがリリーのお眼鏡に適わなければ当初の予定を実行に移すまでだ」

「準備は着々と進んでおります。手続きに必要な書類一式、総理へのコンタクト、近衛隊の戦力拡大まで大旦那様にご満足して頂けるかと」

「残るはあの狐をどう処理するかだな…。流石は近衛隊の総隊長。相変わらず仕事が早くて助かる」

「勿体無いお言葉でございます」



一見細身の体格からは想像も付かないほどの強固な肉体を燕尾服の下に隠し持っている田中は神代近衛隊第1位の総隊長である。
神代家の執事長兼衛専属の執事であると同時に警護要員でもある田中の正体は神代家の人間であれば誰もが知るところだが、立夏を始めとする外部の人間は「長年神代家に仕えるベテラン執事」としか思わないだろう。正に灯台下暗し。木の葉を隠すなら森の中に隠し、多くの不安分子を密かに処理して来た非常に優秀な人材だった。
その仕事ぶりと人間性を誰よりも高く評価しているのは他ならぬ衛だった。
だから衛は田中の言葉で当初の目的を思い出すことが出来たのだ。



「小牧から愚孫に連絡はいってるのか?」

「はい。既に現地を立たれております。旦那様と奥様も時期に到着されるかと」

「今日はもう遅い。明日の朝食時に全員分の席を用意するように。そこでリリーも交えて今後について協議しよう」

「畏まりました」



衛の目的。

それは神代家の総意であり、衛・聖・レティシア3人の悲願でもあった。


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