歪んだ月が愛しくて3
“シークレットガーデン”を制覇するのにかかった時間はゆっくり歩いて約10分。
目の前にはイギリスのカントリーハウスを思わせる外観に、スクラッチタイルの外壁ととんがり屋根の塔が印象的な洋館が聳え立つ。
正面玄関の真上にある2階のベランダの上には翼を持ったライオン像がまるで守護神のようにこの別邸を見守っていた。
「さあ、どうぞ」
葉桜先生に促されるまま別邸に足を踏み入れる。
生まれて初めて訪れた別邸は以前まもちゃんに招待された別荘の規模と同じくらいだった。
造りは本邸と似ている。1階の玄関ホールの中央にはステンドグラスが嵌め込まれた透かし窓がありロマンチックな雰囲気を醸し出していた。
「綺麗…」
天井から吊るされている巨大なシャンデリアには目もくれず、ステンドグラスに描かれた幻想的なデザインに一瞬で心を奪われた。
「気に入った?これは奥様のお父様が作られた作品なんですって。フランスを代表する有名な職人でこれが生前最後に手掛けられた遺作みたい。奥様の嫁入り道具の一つってわけ」
「これをレンちゃんのお父さんが…」
「立夏くんと同じように御大様もこの作品を大層気に入って別邸の一番目立つこの場所に設置したの。そのお父様の作品以外にもこの別邸にはいくつものステンドグラスがあるから好きに見て回るといいわ」
「でもここは未空の…」
「本邸も別邸も管理されているのは奥様よ。あの子には何の権限もないわ。だからここにいる間は本邸も別邸も勿論中庭も温室も好きに見て回っていいそうよ。奥様の許可はもらっているから。まあ、立夏くんの場合は許可を取るまでもないことでしょうけど」
「ここにいる間って…、俺そんな長居するつもりありませんよ。流石にこの時間なんで今日は泊まらせてもらうと思いますけど」
「御大様がそう言ってたの?」
「まもちゃんは何も…。ただ俺を聖学に帰す気はないみたいなことは言ってましたけど」
「だったらそう言うことなんじゃない?その言葉通り夏休みの間はこの屋敷で過ごすことになるかもね」
「いや、流石にそれは現実的じゃないと言うか…」
「あら、そうかしら。御大様に不可能なことはないのよ」
その言葉は妙に説得力があって確信めいたものを感じた。
俺の知ってるまもちゃんは少々強引なところはあるけどいつも俺の意見を尊重してくれる優しい人だから、そう言う一面を見たことがない俺としては想像し難いものだった。
(俺が知らないだけか…)
「あの子の部屋は2階よ」
俺が知らないことはまもちゃんのことだけじゃない。
2階に続く階段を上る葉桜先生の後ろ姿を見つめながら先日のやり取りを思い出す。
『まだ治ってないのね、それ』
『っ、』
未空は葉桜先生が会長の昔の恋人だと言っていた。
保健医としての葉桜先生しか知らなかった時は俺もそう思ってたけど、ここに来てその考えは否定的なものへと変わった。
「ねぇ、立夏くん」
「何ですか?」
もしかして、この人は…。
「何も聞かないのね、あたしのこと」
「さっきまもちゃん達の前で名乗ってたじゃないですか。神代近衛隊の一員で会長専属の警護要員だって。保健医として聖学に来たのは会長の近くにいるためですか?」
でも、それだけじゃないかもしれない。
未空の話をする度に見せる様々な表情が、何となく俺にそう思わせた。
「ええ、そうよ。それがあたしに下された新たな任務…。でもあたしが言ってるのはそう言うことじゃないわ。立夏くんだって本心では気になってるんでしょう、あたしと未空坊ちゃんのこと」
「はい」
「うふふ、正直ね。しかも即答ほど前のめりとは…。未空坊ちゃんには聞かなかったの?」
「俺からは何も聞いてません。未空本人が聞いて欲しくなさそうでしたし、聞いたところで俺に出来ることなんてたかが知れてるでしょう?」
「まあ、普通ならそうでしょうね。他人の問題に首突っ込んだところで結局は自分でどうにかしなきゃいけないんだから。でも立夏くんがその普通に当てはまるとは思えないけど?現に貴方の力を頼りにしている方々がいるわけだしね」
「成程。やっぱり俺はそっち要員でしたか…」
「勿論それだけじゃないけど、あの子は立夏くんにとても懐いてるから期待されてるのは確かだと思うわ」
俺には何も出来ないって言ったんだけどな。
「でも気張る必要はないわ。さっきも言ったけど結局はあの子自身の問題だからあの子が自分から乗り越えることでしか本当の意味で救われることはないんだから…」
「……随分と他人事みたいな言い方ですね」
「あたしのせいであの子がああなったと思ってる?ふふっ、まあ半分はあたしのせいね。それは認めるわ。でもね、あたしは自分がしたことに後悔なんてしてないわ」
そう言った葉桜先生の横顔はどこか強張っているように見えた。
その表情が何を意味しているのか今の俺には分からなかったが、未空と葉桜先生の間には他人が介入出来ない何かがあると確信した。