歪んだ月が愛しくて3
「立夏、今日眼鏡はどうした?」
不意に会長は自分の顔を指差して俺に疑問を投げ掛けた。
「め、がね…?」
………。
「あっ!」
そう言えばあのセクハラ野郎に捕られたままだった。
どうやって取り返そうかな。直接返せって言いに行くしかないか?
「どうしたんじゃリリー?」
「どっかに忘れて来たのか?」
「あ、それが…、さっきのセクハ…じゃなくて警備員の人に眼鏡捕られたままだったのをすっかり忘れてて…。返して欲しいから後で会わせてもらえないかな?」
「あ?捕られただと?」
「それでリリーの素顔を見て暴走したってわけか…」
「リリーは眼鏡を掛けてても超絶可愛いわよ?」
「待って。それってリカの顔に触れたってこと?アイツやっぱり許せねぇ…」
「あ、でも直接返してもらうのが難しかったら後で回収してもらえると有難いかなって…」
「リリー」
「は、はい」
「他人の手垢が付いたものをリリーに使わせるわけなかろう。後日儂がリリーにぴったりな眼鏡をプレゼントするから暫し待っていてもらえんか?」
「あ、………うん。ありがとう…」
顔は笑ってるくせに有無を言わせぬ重苦しい口調に気圧されイエス以外の言葉が出て来なかった。
圧が凄い。凄過ぎる。
一瞬金縛りにあったかと思ったわ。
まもちゃんの前ではあのセクハラ野郎の話はしちゃいけないな。
「そうだわ。お義父様がリリーに眼鏡を贈るなら当然既製品ではなく職人を呼んで一から作ってもらうと思うの。すぐに出来るものじゃないからその間リリーにはうちに泊まってもらった方がいいんじゃないかしら?」
「そうだな。こちらの不手際とは言えリリーの素顔をその辺の輩に無闇に晒すわけにいかないからな」
「素顔って…。別に眼鏡なんてあってもなくても変わらないと思うんだけど。それにあれは伊達眼鏡だから付けてなくても困らないし」
「私達のリリーが天使のように愛らしいって点では変わらないわ。でもこの人の言う通りこれ以上変な虫を寄せ付けないためにも眼鏡は必要不可欠だと思うの。だからって既製品ではダメよ。元々視力は悪くないならこれ以上目を酷使しないようにレンズには拘らないと。私達がリリーの目と肌を守ってあげる」
大袈裟な…、とは口が裂けても言えない。
一度でも否定的なことを言ったら何十倍にもなって返って来そうで恐ろしかった。
「それにリリーと会うのは5年ぶりくらいじゃない。その間私達がどれほどリリーと会いたかったか…。突然連絡が途絶えて心配していた矢先にご両親が亡くなってリリーとも会えなくなってしまって…、本当に心配していたのよ」
「レンちゃん…」
「だからお願い。私達が日本にいる間だけでいいの。もう少しだけリリーと過ごす時間をくれないかしら?」
「え、レンちゃんが日本にいる間ずっと?それっていつまで…」
「お願いよリリー!私達の失った時間を取り戻したいの!」
「ゔっ…」
レンちゃんは胸の前で両手を組みウルウルとした瞳で俺を見つめる。
俺とレンちゃんの距離は間にテーブルを挟んでいるので然程近くはないのだが、金髪碧眼の美女にそんな風に懇願されたら断れるわけないだろう。
「……分かったよ。レンちゃんが日本にいる間は俺もここに泊まらせてもらうね」
「本当っ!?嬉しいわリリー!ありがとう!」
「あ、でも一応自称代理保護者に聞いてみないと確実なことは言えないんだけど」
「ああ、あのPetit Renardね…」
「ぷ、ぷてぃるなーる…?」
「レティ、君は相変わらず正直が過ぎるな。リリーの前だぞ」
「あらいけない、私ったら」
時々レンちゃんの言葉についていけない時がある。
出会った時から俺と日本語で会話をしていたレンちゃんだが、元は生粋のパリジェンヌ。こうして今みたいに俺の知らない単語を会話の節々に出して俺の反応を窺っているように見える。
「立夏がうちに泊まるのはいいとして、その間コイツをどうするつもりだ?俺もアンタ等も仕事や何やらでずっと付きっきりってわけにはいかねぇだろう?」
「でもミッキーはいるじゃない。2人は親友なんだから一緒にいて苦になることはないでしょう?だから私達が仕事で家にいない間は2人に家庭教師を付けて夏休みの課題やその他諸々のお勉強をしたらいいんじゃないかと思うの。そうすれば去年のミッキーのように夏休み最終日になってから急いで課題に取り掛かることはないはずよ」
「な、何でそれを…っ」
「ふふっ、私は何でも知ってるのよ。自分の子供のことなら特にね。それにお義父様も以前より仕事をセーブされてるし、今は私個人の仕事も殆どないから偶に大して楽しくもないティーパーティーに半日拘束される程度。だから仕事で多忙な貴方達に変わって私とお義父様とミッキーが責任持ってリリーのお相手をするから安心して頂戴」
「レティ、自分達だけリリーを独占するのは狡いんじゃないか?リリーと会えなくて寂しかったのは俺も同じだぞ」
「仕事があるなら仕方ないでしょう。貴方は責任ある立場にいるんですもの。でも…、息抜きは大切よね?仕事が早く片付けばリリーとの時間を確保することも出来るんじゃないかしら?」
「そう来たか」
「チッ、初めからそのつもりで俺まで呼び出したのかよ…」
「どうかしらリリー?今のはあくまで私の案よ。他にもやりたいことがあれば教えてくれない?」
「家庭教師の人に課題をみてもらえるのは有難いな。それに未空と一緒なら俺も安心だし、未空がそれで良ければレンちゃんの案を通してもらいたいんだけど」
「あ、……うん。俺もリカが一緒なら何でもいい、です」
「ならやりたいこととか行きたいところが見つかったらその都度教えて頂戴。早速家庭教師を手配するわ」
「ありがとうレンちゃん」
「ありがと、ございます…」
「いいのよ。元々そのつもりだったからある程度候補は絞っていたし、折角来てくれたリリーの貴重な時間を無駄に浪費するわけにもいかないからね。10時までには来れると思うから別邸の“紫水晶の間”で待っていて頂戴。終わったら3人で昼食を摂りましょう。中庭の“ローズガーデン”に集合ね」
「うん、分かった」
「おいおい、儂は誘ってくれないのか?」
「お義父様は10時から会合のため外出されるでしょう。お戻りは夕方と聞いていますよ。貴方もミーコちゃんも寝る間も惜しんで仕事しなくちゃいけないから昼食は勿論夕食を一緒に摂ることも難しいかもしれないわよね、残念だわ」
「そう言う君だって乙黒家のガーデンパーティーに招待されていると言ってなかったか?」
「ええ、娘を売り込みたくて必死のCochonのね。だからお昼前には切り上げるつもりよ」
「そりゃ必死にもなるだろう。まあ、今はまだ事を起こすには時期尚早だから適当に相手してやってくれ」
「勿論よ。うちの息子2人には既に心に決めた人がいるってそれとなく言っておくわ」
「まだどうなるか分からんよ。それを決めるのは儂等じゃなく相手方の方だ。それに当初の予定通り3人目として迎入れる選択もあるからの」
「うふふ、そうでしたわ」
「結果が同じであればどちらでも構わないからな」
そんな会話を右から左へ受け流しながら食後のコーヒーを口に含む。
その会話の内容には興味なかったが、ふと視線を上げた時に見えた会長の険しい顔と未空の曇った顔がやけに印象に残った。