豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網
 カタカタとキーボードを打ち鳴らす音が室内に響く。すでに、終業時間をとっくに過ぎたフロア内は人もまばらだ。
 明日が休みの花の金曜日、終業時間直後のフロア内は、早々に仕事を切り上げ帰る者が多い。一杯飲みに行く者や、華やかなメイクを施しウキウキと退社して行く者まで、皆一様に浮き足だっている。
 そんな一時が過ぎれば、途端にフロア内はさびしくなる。久々の残業を終え、パソコンの電源を落とした私は、満足気なため息を吐きつつ伸びをした。
 さて、適当に夕飯でも食べて帰ろう。
 最近ではおひとり様が板に付き、ひとりラーメンだろうと焼き肉だろうと何でも御座れだ。徐々にオジサン化が進んでいる自分に呆れつつ、カバンを掴むと近くの席の同僚に挨拶をし、扉へと向かう。エレベーターに乗り一階へ着くと、足早にエントランスの自動ドアをくぐり外へと出た。
 街頭がポツポツと立つ歩道は、時間が時間だけに歩行者もまばらだ。目の前の幹線道路を車がビュンビュンと行き交うのを横目に駅へと続く路地へ入った時だった。

「鈴香、待てって」
「………っ!?」

 突然、背後から腕を掴まれ硬直する。後ろから響いた声に身体が痺れたように動かない。グイっと引き寄せられ、背がぶつかると同時に回された腕を見て我にかえった。

「は、離して……」
「離したら鈴香は逃げるだろう? 何度も何度もメールも電話もしたのに無視するなんて酷いな。俺が鈴香をフったから怒っているのか? あんなのジョークに決まっているだろう。俺への愛を確かめたかっただけなんだ。長く付き合っているとさ、不安になるんだよ。鈴香は、今でも俺を愛しているのかって。だから、他の女を使って、鈴香の愛情を確かめただけなんだ。本当に別れるつもりなんてなかった。あの女とも、もう別れた。俺には鈴香だけなんだよ。鈴香なら俺の気持ち分かってくれるよな」

 耳元でささやかれる身勝手な言葉の数々に、動転した心が平静さを取り戻す。なんて身勝手な言い分だろう。この男は、私だけでなく、あの浮気相手の女ですら貶めていると分かって言っているのだろうか。
 女性を何だと思っているの。この男にとって女は欲を満たすためだけの道具でしかないのだろう。
 以前なら、この男の言動に愛を感じ浮気相手の女の元から帰って来てくれたと咽《むせ》び泣いていたかもしれない。でも、今は違う。
 フツフツと湧き上がる怒りの感情が硬直した身体を奮い立たせる。

「離してちょうだい!」

 想像以上にドスの効いた低い声が静かな空間に響く。身体に回されていた腕が一瞬緩んだ隙をつき逃げ出した。

「待てって!! 逃げることないだろう」
「嫌よ! 離して!! アンタと話なんてない」

 必死に走ったところで所詮、男の脚には敵わない。あっという間に追いつかれ腕を強く掴まれ引き寄せられてしまった。

「怒るなって。痛感したんだ。俺には鈴香だけなんだって。俺の一番の理解者は鈴香なんだって。十年も付き合って来たじゃないか。何度も別れの危機はあったけど、二人で話し合って乗り越えて来たじゃないか。今回だって二人なら乗り越えられる」
「勝手なこと言わないで! 今までだって散々浮気してきたくせに、最後は浮気相手の女を伴って別れを切り出したのはそっちでしょ!! しかも、あの日は私の誕生日だった。あのクリスマスイブの夜、私がどんな想いで過ごしていたかなんて、浮気相手と熱い夜を過ごしていたアンタは考えもしなかったでしょうね! もう目が醒めたの。アンタなんて、これっぽっちも愛していないわ。未練すら残ってない。だから、もう連絡して来ないで!!」

 渾身の力を込め突き飛ばそうとした手を掴まれ、羽交い締めにされる。

「離して! 離してってば!!」
「ちっ! うるせぇなぁ!! お前は俺の言う通り従っていればいいんだよ。どうせ他に男なんていないんだろう? じっくり身体に教えてやるから来い」

 強い力で腕を引かれ、引きずられるように歩かされる。ここから路地裏に連れ込まれれば何をされるかわからない。街灯すらない暗がりへと続く路地の奥を見つめ絶望感が増していく。
 こんな身勝手で暴力的な男を盲目的に愛していたなんて、本当馬鹿だった。
 溢れそうになる涙を堪え、手を解こうと何度も捻るが、そんな些細な抵抗など無駄だった。
 暗がりの先に見えた人気のない公園へ着くと、抵抗虚しく奥の暗がりへと連れ込まれ押し倒されていた。

「……や、やめて!」

 固い地面に押しつけられ、両手を頭上でひとまとめに固定されてしまう。見上げた先の男の顔は、私のよく知る元彼の顔ではなかった。欲望にじむギラつく目で睨まれ、背筋が凍る。瞬間的に湧き上がった嫌悪感に吐き気さえする。目の前の男を見ることも耐えられず瞳を閉じれば目尻から涙が溢れ出した。
 こんな最低男に犯されるなんて……
 絶望感と嫌悪感に支配され、溢れ出した涙を止めることも出来ない。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁ……
 溢れ出した感情のまま、最後の力を振り絞り暴れ出した瞬間だった。突然重みが消え、身体が自由になる。涙でにじむ視界の中、信じられない光景を見て、胸が締めつけられた。

「なんでいるのよぉ、橘ぁ……」
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