もう一度 恋をするなら

弓木薫

◇◆◇


 幼い頃から父とふたりきりの生活だった。

『母さんは、病気で死んじゃったんだ。だからお父さんとふたりでがんばろうな』

 小さかったから覚えていないと思ったのか、ごまかせると思ったのか。本当は、出て行ったのだということは知っている。玄関先で争う声と背中を薄っすらと覚えていた。ただ、それが「そう」だったのかと思い至ったのは、小学校高学年くらいだろうか。
 ある程度ものがわかるようになってきた頃で、大人も必要なら嘘を吐くということを理解してからだ。

 それでも、父のことは慕っていたし、俺を育てるために仕事と家事を両立させようと頑張っていたことを知っている。感謝もしていた。料理だけはちっとも上手くならなかったので、途中から俺が覚えたけど。

 父は若いころからよくモテたらしい。たまに家へ遊びにくる父の友人から、よく武勇伝のようなものを聞かされた。顔立ちはもちろん穏やかな気質と優しい口調で、何もせずとも女性が寄ってくるそうだ。

『だからこいつ友達が少ないんだよ。好きな女がすぐに取られちまうからさ』

 そんなことまで聞かされた時には、もう中学生だったから話し半分で聞き流せたけど、多感な年齢の子供に何を聞かせるんだと後から考えればそう思う。

 そんな父だったけれど、穏やかな性格なのは本当で俺に取ったら良い父親で、母親がいなくてもそれほど悩んだり寂しく感じたりすることはなかった。



 父の都合で引っ越すことになり、そのマンションの隣の部屋に住んでいるのが今井さんだった。同じ中学校に通うことになったので、転校初日から何かと気にかけてくれた。

 可愛い子だなと思った。彼女はいつもにこにこと笑顔でいることで、周囲を和やかにしていた。シングルファザーの我が家と反対に彼女の家は母親がひとりだけ。といっても別居中で離婚家庭ではないらしい。彼女がいつも笑っているように、母親も外で会う時は優しそうな笑顔を湛えている。

 それだけに、時折隣から聞こえてくる金切り声や物が壊れる音には、子供ながらに何か追及してはいけない闇のようなものを感じていた。

 誰かが児童相談所に通報したこともあるそうだが、実際には今井さんが怪我をするようなこともなく単なる親子喧嘩として片付けられてしまったらしい。同じ階の住人と父が話していたのを聞いた。

 彼女が笑えば笑うほど、守らなければと――俺はどこかで驕っていたのかもしれない。
 だからあの日、彼女が目の前から消えた日。
 守りたいだなんて思っていながら、自分がまだ何の力もない子供だということを思い知らされた。
 
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