お嬢様、庭に恋をしました。

もう一度、会いに行く理由がほしい

「椎名くん、有栖川家の担当、今日までね」
 
そう言われたとき、
胸の奥がギリギリと音を立ててぎしんだ。
 
(ああ、やっぱり来たか)
 
……でも、そうなることは、
どこかでわかっていた。
 
舞花と、あんな形で気持ちが通じて。
やっと言葉にできたばかりだったのに──
 
「身の程を知れ」という静かな圧。
返す言葉なんて、持ってなかった。
 
だから。
何も言わずに、姿を消した。
 
(最低だ)
 
それは、自分が一番わかっていた。
 
でも──

何も残さず去るのは、それ以上にできなかった。
 
現場を離れる前の朝、
そっとポケットに入れていた、小さな種の袋。
ベンチのすぐ脇、
誰にも気づかれないような場所に、しゃがみこんで。
 
(気づかなくてもいい。
でも、咲いたときに──
“あ”って思ってくれたら)
 
そう願って、手を土に入れた。
 
指先が少しだけ、冷たかった。
でも、その冷たさの奥に、
なぜか彼女のぬくもりがあるような気がして。
 
そっと、手を重ねた。
 
花の名前は、ワスレナグサ。
 
花言葉は──
「また会う日を楽しみに」。
 
(これ以上の言葉は、
今の俺には持ってない)
 
ベンチのすぐ隣。
いつも彼女が、少しだけ足を伸ばしていた場所。
きっと、舞花にしか気づかれない。
 
それでよかった。
彼女が、その花に手を伸ばしてくれたなら──
 
その時こそ、
俺は“迎えに行く理由”を、持っていい気がした。
 
努力して、ちゃんと認められて、
もう一度、胸を張ってあの庭に立てるように。
 
「あと一歩、踏み出すために──今は、強くなる」
 
小さな種を埋めたその日から、
悠人の時間もまた、静かに動き出していた。

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