蜜味センチメンタル
……その名前が発せられた瞬間、心臓がひとつ、大きく跳ねた。
——え……
耳の奥がわずかに痛んだのは、会議室の音が遠のいたせいだろうか。羅華は思わず顔を上げ、前方のスクリーンを見つめた。
そこには、明るく笑う女性アナウンサーのプロフィール写真。柔らかな髪、堂々とした笑み、洗練された雰囲気。
けれど、その目元も、口元も。羅華の記憶の奥に焼きついた顔と、寸分違わぬものだった。
——藍良……?
弥の妹。
そしてかつての親友であり、中学時代、自分をどん底まで追い詰めた女。
「司会経験も豊富で、近年は食育をテーマにした情報番組のレギュラーも担当しています。今回のテーマとの親和性も高く、局側との交渉も円滑に進みました。来週には初回打ち合わせを予定しています」
説明は続いていた。まるで何事もないかのように、淡々と、業務のひとつとして。
けれど羅華の中では、時間の流れが少しだけずれていた。全身の血の気が引き、体の震えを感じながらも、表情だけは変えずにペンを手に取る。
誰にも悟られないように。
これは、仕事だから。
ここで動揺してはいけない。
「問題がなければ、このまま進めさせていただきます」
司会者選定の確認が促される。
「……異論ありません」
自分の声が思ったよりも平静に出たことに、逆に驚く。
視線を落としたまま、羅華は深く息を吐いた。
——まさか、藍良の名前を、この仕事の場で、こんな形で耳にすることになるなんて……
過去は、とうに置いてきたはずだった。
名前を口にすることも、思い出すことも、もうないと思っていた。
けれど今、それは“職務”という仮面をすり抜けて、確かに胸を揺らしている。
わずかに震える手を、膝の上で握りしめる。
大丈夫。
これは、ただの案件。
過去の感情は、業務に関係ない。
そう言い聞かせながら、羅華は再びスクリーンに目を向けた。
そこには、まるで過去などなかったかのような、プロフェッショナルな笑顔が映っていた。
——でも、本当に忘れたままでいられるのか。
そんな予感が、胸の奥で、静かにざわつき始めていた。