蜜味センチメンタル
吐き捨てるようなその声に、藍良が肩を震わせる。
「羅華さんを……僕の大事な人を、どれだけ傷つけたか自覚してます?ついには彼女を殴っておいて、このまま何もなかったことにしろと言われて、それで僕が簡単に納得するとでも?」
感情を抑えきれないように握り締められた拳。怒りに滲んだ声。
けれど——
「那色くん」
羅華はそっと手を伸ばし、那色の袖を引いた。
その小さな動きに、彼の肩がぴくりと揺れる。
「……羅華さん」
名前を呼んだ声が、かすかに掠れていた。
羅華は目を伏せたまま、静かに首を横に振る。
──もう、いい。もうこれ以上、関わりたくない
言葉にはしなかった。けれどもう、心の底から疲れていた。
那色が自分のためにここまで怒ってくれた。それだけで、十分だった。
「…っ」
那色はしばらく黙ったまま、拳を振るわせ立ち尽くしていた。
やがて、気持ちを落ち着かせるように深く息を吐くと、ゆっくりと冷めた視線を藍良に向けた。
「……けじめは、つけろ。僕は絶対にあなたがしたことは許さない。自分がしたことを、なかったことにだけはするな。罪の重みを忘れるな。次はない……それを肝に命じておけ」
怒りはまだそこにある。けれど、それでも彼は怒りも悔しさも言葉も、何もかも飲み込んでくれた。
──そう望んだ、自分のために。
「……ありがとうございます」
項垂れる藍良の代わりに、再び弥が深く頭を下げる。長い時間をかけて頭を上げたあと、弥の視線が羅華へ向けられる。
「……もう二度と、俺も藍良も君に近づかない。……だからどうか、彼と幸せになってくれ」
その言葉は、羅華の胸に、少し痛みを残して落ちていった。
弥は崩れた藍良の肩を抱き寄せるようにして立ち上がる。
二人が背を向けた。寄り添う背中がゆっくりと、廊下の奥へ消えていく。
その足音が聞こえなくなったあとも、しばらくのあいだ、誰も動かなかった。