蜜味センチメンタル
羅華はスマホを取り出し、同僚へ「撤収中に軽い怪我をしたため帰宅する」と連絡を入れる。心配とともに了承の返事を受け取り、タクシーアプリを開こうとしたそのとき──
「羅華さん」
那色の声に、手が止まる。それと同時、スマホの画面を覆うように彼の手が重なった。
「……やっぱり、帰るのやめませんか?」
「え?」
戸惑いを浮かべる羅華の視線を、まっすぐ受け止めながら、那色はゆっくり言う。
「部屋、取ります。というか、今日はホテルの全室を来賓用に貸し切ってあるんで、一室使えるように手配します」
羅華の瞳がわずかに見開かれる。普段の那色からはほとんど出ない、“御曹司”らしい物言いだった。
職権濫用みたいで、少しだけずるい。でも、不思議と抵抗はなかった。
「でも、そんな……いいのかな…?」
「いいんです。というか、お願いします。今夜だけでいいから、僕のわがままをきいてほしいんです」
「……」
「……ひとりで帰すのが、どうしても嫌なんです」
その声は、いつもの優しさのままで。けれど、その奥には焦りのような切実さも滲んでいた。
羅華はしばし沈黙し──やがて、ふっと笑った。
「……じゃあ、今夜だけ。甘えちゃおうかな」
スマホを閉じてポケットにしまい、那色の指先をそっと取る。返ってきたその手の力強さが、すべてを語っていた。
「……ありがとう」
那色が静かに笑ってうなずき、受付に連絡を入れる。
そして案内されたのは、最上階の静かな部屋だった。
廊下を並んで歩くあいだ、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。けれど那色の手は最後まで羅華の手を離さなかった。