私の愛した彼は、こわい人
 談笑もそこそこに、サロンを後にし、駅でコハルと別れた。帰宅ラッシュの東横線に乗り込み、日吉駅で降りた。
 寄り道なんか一切しない。どんなに疲れた足でも関係なしに、私は急いでアパートへと向かった。
 駅前はわりと栄えているけれど、歩いて数分もすると人通りは少なくなる。閑静な住宅街に入り東へ進んでいくと、築五年のアパートが見えてきた。

 付き合っている彼──タクトと、一ヶ月前から一緒に住んでいる2Kのアパートだ。

「九時すぎちゃった……」

 いつもより三十分も帰りが遅くなった。ラストのお客様の施術が長引いてしまったから仕方がない……よね。
 階段で二階へ駆け上がり、202号室の前に着いた。
 部屋の中からいい匂いが漂ってきた。この香りは、ハンバーグかな。

「タクトただいま。遅くなってごめん……ね」

 ドアを開けるとすでに玄関でタクトが待っていた。彼は、私の顔を見るなり強い力で抱きしめてくる。

「アスカ」

 声を震わせるタクトは「アスカ」「アスカ」と何度も私の名を呼び、息が苦しくなるほど全身を締めつけてきた。
 どんなに苦しくても、私はタクトを拒否しない。落ち着くまで、離れてはいけないから。

「どうしたの? もう九時過ぎだよ。遅すぎじゃないか」
「ごめんね、最後の施術時間が押しちゃって」
「どうして」
「お客さんが遅刻しちゃったの」

 タクトはさっと私の体を離した。
 息苦しさから解放され、私はほっとする。
 けれど、タクトの顔を見るとまた不安に駆られてしまう。
 眉間にしわを寄せ、彼はひとこと。

「迷惑な客だね」
「え……」
「その客のせいでアスカの帰りが遅くなったんだよね」
「ううん、それだけじゃないよ。今日は一日忙しかったから」
「アスカのサロンはいつも忙しいだろ」

 私の肩を掴み、タクトはどんどん早口になっている。
 ……落ち着いて。話を逸らして。気持ちを切り替えてもらわないと。
 タクトは真面目に仕事をするサラリーマンだ。お仕事の話をすれば、きっと冷静になってくれるはず。

「あのね、タクト。お願いがあるの」
「なに?」
「レガーロ商品のことなんだけど」

 私のひとことで、タクトの手の力が抜けていく。

「商品について相談かい?」
「うん」

 さすが、仕事のことになると切り替えが早い。社会人の鑑だ。
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