私の愛した彼は、こわい人
 私とオーナーはしばらく無言になり、気まずい空気が流れた。
 タクトのところに戻って謝れば、許してくれる……? そんなこと、ないのかな。無理なのかな。

 ちらりと、神楽オーナーの横顔を見た。灰皿に煙草を押し付け、ジュースを飲むのに集中している。
 オーナーの自宅に、いちスタッフである私がお邪魔するなんて。どう考えても非常識だ。

「やっぱり、今晩泊まれるホテルを探します。最悪ネカフェでもいいですし……」
「ダメだ」

 彼は頑なに首を横に振った。

「お前を一人きりにするのだけは反対だ。衝動であの男のところに戻られたら俺の苦労が水の泡になる」

 おかわりのジュースを飲み干して、オーナーはまっすぐ前を向いて呟いた。

「俺の家に、来いよ」

 本来ならここでお断りするべきだし、私の中でもまだ迷いがある。
 タクトを裏切ってはいけないという気持ちと、彼から逃れたいという思いと。

 でも──。

 なんで私はこれまで逃げられなかったんだろう? タクトに心身を拘束されていたから? 逃げる気力も奪われていたから?
 まるで、沼に引きずり込まれたような感覚。
 そうだ……完全にはまる寸前で、オーナーが私に手を差しのべ救い出してくれたんだ。

 私は彼の瞳を見た。サングラスの中で、私の姿を捉える、鋭くも力強い眼差し。
 迷っている場合じゃない。決めないとならない。もう二度と、沼に落ちていかないように。

「神楽オーナー」

 彼の顔を、しっかりと見つめる。

「ご自宅にお邪魔しても、いいですか?」

 オーナーは、無言で頷いた。
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