失恋相手と今日からニセモノ夫婦はじめます~愛なき結婚をした警視正に実は溺愛されていました~
「鷹本……未可子さん?」

 思ったよりも高い声で唐突に名前を確認される。この状況でなにが言えるのか。肯定も否定もせずにいたら、彼は納得した面持ちになった。

「あんたに恨みはないんだけど、頼まれちゃってさー」

 ずいぶん軽い調子で男は告げた。

 頼まれたって? なにを?

 聞きたいのに聞けない。うまく力が入らず、倒れそうだ。

「殺しはしないから、その綺麗な顔に消えない傷を残させてもらいたいんだ」

 そう言いながら、彼は空いている方の手で折り畳み式のナイフを取り出した。状況についていけないが彼が本気なのはわかる。叫ぼうとするが、顔の半分を手で覆われどうにもできない。

「んーー。んっん……」

 声の代わりに涙があふれて息も苦しい。すると男は嗜虐的な笑みを浮かべた。

「切れ味がよかったら、傷が綺麗に治るかもしれないから、わざと治りにくくて痕が残るように、ギザギザの刃で傷をつけてあげるよ」

 必死で暴れるが自分より体格のいい彼から逃げられない。彼の言った通り、ナイフのエッジ部分には凹凸があり、わずかに差し込む光が刃先に反射した。

 彼の目的も、だれになにを頼まれたのかもさっぱりわからないが、とにかく逃げなくてはと冷静な自分が訴えかけてくる。しかし恐怖で全身の筋肉が強張って体が動かせない。

「んー、んーー」

 薄暗い路地の裏、きっと気づく人はいない。自然と涙がこぼれ、目を閉じる。
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