孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
エレベーターが静かに下降する間、二人の間に言葉はなかった。
けれど、それは気まずさとはまるで違う沈黙――むしろ、心地よくて、安らげるものだった。

並んで立つ肩と肩、その間にあった空気がいつの間にか柔らかくなっていて、
自然と手の甲が、そっと触れ合っていた。

やがて、「チン」という軽やかな音とともに、一階に到着。
扉が静かに左右へと開いた瞬間だった。

「……あっ」

わずかによろけるように前へ出た紬の体がふらつく。
ミモザのやさしい甘さが、遅れて効いてきたのかもしれない。

その瞬間、一条の腕が素早く伸びた。

「危ない」

彼女の肘をしっかりと支え、軽く自分の方へ引き寄せる。
紬の身体は、その胸元に軽く預けられるようなかたちで収まった。

ふっと鼻先をかすめたのは、一条の香り――ほんのりとスパイシーで、それでいて深みのある、落ち着いた香りだった。

「……っ」

息が止まりそうになるほど近くて、目が合ってしまいそうで、けれど見上げてしまう。
一条はまっすぐ紬を見つめていた。けれどその瞳は、どこまでも優しかった。

「紬さん。……開きましたよ」

静かにそう告げた一条の手が、触れていた肘からそっと下り、やがてその手のひらが紬の手をやさしく包む。

酔いのせいか、気持ちがふわふわと浮かんでいた。
けれど、今この手に触れられている現実は、何よりも確かだった。

「ありがとうございます……」

照れ隠しのように呟いた紬の声に、一条はただ静かに微笑むと、
歩き出す彼女の歩調に合わせるように、ゆっくりと隣を歩いた。

――その夜の東京の空気は、ほんの少し、夏の香りがした。

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