孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
午後3時、応接スペースの一角。
紬は資料の入ったファイルをテーブルに並べ、目の前の中年男性――今回の事故の加害者であり、保険契約者でもある男に、淡々と説明をしていた。

「現在、被害者側の弁護士と慰謝料の算出に関して調整をしておりまして、再見積りを――」

「だからそれが遅いって言ってんだよ!」

突然、机を叩くような音がして、紬の体がびくりと跳ねた。

「こっちは毎日電話がかかってきて、職場でも肩身が狭い思いしてんだよ。あんたたちがとっとと示談まとめないからだろうが!」

怒鳴り声が、狭い応接室に響き渡る。

紬は声を出そうとしたが、喉がひゅっと縮こまったように声が出ない。
冷や汗が背中を伝い、手のひらにはじんわりと汗がにじむ。

「……し、しかし……ご説明のとおり、被害者側のご意向もありまして、即時の解決が難しく……」

なんとか言葉を繋げるも、相手は納得するどころか身を乗り出し、紬の手元の資料を指さしてさらに怒鳴った。

「こんなもん書類だけ見てわかるか! あんた、こっちの気持ち、少しは考えたことあんのかよ!?」

目の前の男の顔が迫り、唾が飛ぶほどの勢い。
紬はとっさに椅子の背もたれに寄りかかるように身体を引いた。
頭の中が真っ白になる。

心臓の鼓動がひどく早くなる。呼吸も浅くなる。
昔、上司に無理やり身体を近づけられたときと同じ感覚――
ぞわっと全身の肌が逆立つような、不快な震えが襲う。

「……あの……こちらでは対応しかねますので、改めて弊社と顧問弁護士との面談を設定させていただきます……」

ようやく絞り出した声に、男は憮然とした表情で舌打ちした。

「弁護士? 最初からそいつ出せばよかったんだよ。やれやれ……分かったよ、日程調整しとけ」

男が立ち上がり、資料を乱雑にテーブルに戻して出ていく。

その瞬間、紬の肩から力が抜けた。
小さく震える手を胸元で組み、深呼吸を数回繰り返す。
ドアの外に男の足音が消えてから、ようやく張り詰めていた空気が緩んだ。

「……はぁ……」

彼女の目元には、恐怖と疲労が色濃く滲んでいた。
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