孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
小さな会議室に、冷たい沈黙が落ちていた。

紬は椅子の背もたれに触れることなく、背筋を伸ばして座っていた。
両手を膝の上に重ねて、強く握っているのに、指先がかすかに震えていた。

人事課の男性が口を開いた。
「では、具体的に教えてください。岩崎課長から受けた被害の内容を」

声は丁寧だが、あくまで機械的だった。

紬は一度だけ深く息を吸ってから、話し始めた。

「最初は、軽く肩に触れられるくらいで……でも、それが何度も続くようになって。笑って流しても、やめてくれなくて……」

口の中が乾いて、次の言葉が出てこない。
小さく咳払いして、もう一度言葉を探した。

「ある日、コピー機の奥で……後ろから、抱きすくめるように触られて、身体を……胸に手が……」

言葉が途切れた。
息が詰まった。
記憶の扉を開けるたび、あの瞬間の自分に戻ってしまう。
心臓が速くなり、胃が重くなる。

「イヤだって言っても、『冗談だよ』って笑って、でも手は離してくれなくて……」

封じたはずの記憶が、脳内で映像のように再生される。
無理やり笑って流した日のこと、トイレに駆け込んで吐きそうになった夜のこと。
全部、全部、引きずり出して話さなければならなかった。

途中、何度も思った。
——こんなことなら、言わなきゃよかった。

体の奥にこびりついた感触を、また自分の口から言葉にして差し出すことが、これほどまでに自分を壊していくとは思わなかった。

ようやくすべてを語り終えたとき、人事課の男性が書類にペンを走らせながら、ぽつりとつぶやいた。

「あなたにも、隙があったんじゃないですか?」

その瞬間、すべての音が消えた。

頭が、真っ白になった。
心臓の音すら聞こえない。

そうか、私が悪かったのか。
あの時、笑ってごまかしたからか。
服装がいけなかったのか、嫌だってはっきり言わなかったからか。
——だから、言うべきじゃなかった。

我慢して、受け入れて、何もなかったふりをする。
それが、社会の中で「正しい」対処だったんだ。

気づけば、会議室から人の気配が消えていた。
まだ目の前に担当者はいたはずなのに、紬には見えなかった。

部屋の中には、紬一人しかいなかった。

冷たい、ひとりきりの空気が、胸をきしませていた。
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