孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
よし、と短く息を整えてから、紬は受話器を取り上げ、事前に打ち合わせしていた被害者の自宅番号を押した。
コール音が2回鳴ったあと、電話口の向こうから、重くやや苛立った声が聞こえてきた。

「……もしもし」

「お世話になっております。アーバンライフ保険の成瀬です。
先日はご多忙の中、お時間をいただきありがとうございました。本日は、最終的なご確認とご説明のためにご連絡いたしました」

「あんたさあ、こっちはもう何回も説明してんのに、いっこうに納得できる話が来ないんだよ。俺の話、ちゃんと聞いてんのか?」

声が一気に大きくなり、紬の鼓膜を打った。
だが、彼女は怯まず、柔らかくも芯のある声で応えた。

「はい。7月16日にいただいたご説明内容、すべて記録に残してございます。
信号のタイミングや、ご自身が直進優先であったこと、そのうえでバイクが急ブレーキをかけることになった経緯についても、しっかり確認いたしました」

「だったら、なんでまだ俺の過失があるとか言ってんの?」

「ご説明させてください。
事故現場の防犯カメラ映像、それから相手方のドライブレコーダーの解析結果に基づき、現状では信号のタイミングに双方の判断のずれがあったと考えられます。
そのため、交通事故鑑定士からも“過失相殺の妥当性あり”との見解が出ております」

「ふざけるなよ……俺は被害者なんだよ?骨まで折られて、まだ“半分はあんたも悪い”とか言われなきゃなんねぇのか?」

声が震え、怒りというよりも悔しさがにじんでいた。
紬は一瞬だけ口を閉じ、それから静かに言葉を継いだ。

「……お怪我の痛み、長期入院でのご不安、ご家族へのご負担。
それらがどれほど大きなものだったか、私たちも重く受け止めています。
だからこそ、慰謝料・入通院費・休業損害は、基準よりも最大限上乗せしてご提示しております。
ただ、保険金は“感情”ではなく、法律と事実に基づいての算出となります」

電話の向こうの呼吸音が荒くなる。
しばらく沈黙が続いた。

「……あんた、若いのにずいぶん理屈っぽいんだな」

「失礼いたしました。
ただ、私の立場として、事実から目を背けずにお話することが責任だと思っております。
ご納得が難しい場合には、当社の顧問弁護士とともに法的に整理しながら、再度ご説明の機会を設けることも可能です」

「……」

「そのうえで、最終的なご判断をいただければと考えております」

沈黙。
受話器を持つ手にじっとり汗がにじむ。

「……分かったよ。納得はしてないが、これ以上は時間のムダだ。そっちの条件で飲むよ」

「ありがとうございます。では、本日付で書類を発送させていただきますので、お手元に届きましたらご署名・ご捺印のうえ、ご返送をお願いいたします」

紬は、深く一礼するような気持ちで通話を終えた。
受話器を置いたあと、指がかすかに震えていた。
けれど、その表情には少しだけ、ほっとしたような光が差していた。
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