孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
午前11時。
法律事務所の一室。 
机の上には分厚いファイルがいくつも積まれ、モニターには訴状の写しと判例データベースが並ぶ。

隼人は、民事裁判の証拠提出に関するタイムラインを整理していた。
依頼者が提示したメールのやり取りと、提出期限との整合性を確認しながら、Wordのドキュメントに要点を書き出していく。

(証拠説明書は午後一番か……)

視線を落としながら、ふと脳裏に昨夜の紬の顔が浮かぶ。

髪を乾かし終えたあと、まどろむように隣に横たわっていた彼女。

その頬に、指先でそっと触れた時の柔らかさと、何も言わずに目を伏せた仕草が、どうしても頭から離れない。

隼人は手を止めて、深くため息をついた。

「……くそ」

机に手をついてもう一度ため息をついたところで、ドアがノックもなく開き、同期の児玉弁護士が書類を片手に入ってきた。

「お前、ため息つきすぎだろ。珍しいな。何、仕事でミスったか?」

「いや、違う」

淡々と答える隼人に、児玉はにやりとした笑みを浮かべて、椅子の背にもたれかかった。
「女か?」

一瞬、言葉に詰まった隼人が黙っていると、それだけで察したらしい。

「……マジか。お前が女のことでため息つく日が来るなんてな。天災が起こるぞ、備蓄しとくか」

冗談を投げてきた児玉は、苦笑しながら資料を棚に突っ込み、そのまま軽やかに部屋を出ていった。

扉が閉まった後も、隼人は再びモニターを見つめたまま、動けずにいた。

(止められなくなる、か……)

昨夜、眠る紬の肩に触れたとき、自分の中に押し込めていたものがふいに暴れ出しそうになるのを、必死で抑えた。

彼女の瞳の奥に、不安と期待がまじった光があって、それがあまりに真っ直ぐだったから。

だからこそ、簡単には触れたくなかった。
ただの欲望なんかで、壊したくなかった。

そんなことを考える自分に、思わずもう一度、小さくため息をついた。
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