孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
面談予定の時間よりも十五分も早く、大橋健一は応接スペースに現れた。

受付で名乗るなり、不機嫌そうに眉をひそめ、そのままソファに深く腰掛けた。

手には分厚い事故報告書のコピー。
書類をめくるたび、紙の擦れる音が妙に鋭く響いた。

紬は、自席で最後の資料確認をしながら、すでに始まっている胸のざわつきを抑えるため、静かに深く息を吐いた。

一度。もう一度。

まるで自分の中の「恐怖」という感情に、理性の蓋をかぶせるように。

(私はただの担当者。事務的に、冷静に。関わらない。深入りしない)

応接室へ向かう廊下を歩くたびに、足元のカーペットが重たく感じられた。

ガラス越しに見えた大橋は、やはり仏頂面で、手元の書類に視線を落としたまま、ペン先で机を小刻みに叩いていた。

「まだこないのかよ。客を待たせていいと思ってんのか」
誰にともなく呟かれたその声は、はっきりと苛立ちを帯びていた。

紬は、応接室のドアをそっと開け、頭を下げながら小声で言った。

「……申し訳ありません。ただいま弁護士が到着いたします。もう間もなく参りますので」

大橋は視線だけで紬を射抜き、鼻で笑うように息を吐いた。
「へえ。保険会社のくせに、随分のんびりしてんな」

無理やり上唇を引き上げるようにして、紬は形だけの笑みを浮かべた。

(反応しちゃダメ。目を合わせない。怖がってるって思わせちゃダメ)

心の中で繰り返す。
けれど、その声すら、震えていた。

紬はゆっくりと書類を机の上に並べながら、なるべく大橋の存在を「背景」として扱おうとした。

まるで、彼がそこに存在しないかのように。
空気のように。

だが現実は、空気ではなく「圧」だった。

背後の気配が濃く、息苦しい。
冷や汗が背中を伝う。

その時――ノックの音が響いた。
助け舟のように現れた、一条隼人の姿が、ドアの向こうにあった。

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