孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
「いい加減にしろよ!」

大橋の怒声が、まるで水の中で誰かが叫んでいるかのように、遠く、ぼやけて響いた。

——あれ?

何かが、おかしい。

立っているのか、座っているのか。
それすらはっきりしない。
床に足がついているはずなのに、浮いているような感覚。
視界の端が滲む。
まばたきをしても、焦点が合わない。

目の前で、大橋の唇が動いている。
怒鳴っているのは分かる。
でも、音が頭に入ってこない。
ただ、「大きな声」だけが、ふわりふわりと頭の中に響く。

——ここはどこだろう。
——私、何してたんだっけ。
——これ、夢だったらいいのに。

喉の奥がきゅっと締まる。
胸が苦しい。
体温が下がっていくのが、自分でも分かった。
目の前の空気がどんどん白く、遠く、薄れていく。

(怖い)

その言葉を心の中でつぶやこうとした瞬間——

「もういい。そこまでにしていただけますか、大橋さん」

低く、鋭く、研ぎ澄まされた刃のような声が空気を切った。

——あ、声が戻ってきた。

意識の深いところに落ちかけていた紬は、その声に引き戻されるように、ほんのわずかに目を瞬いた。

ソファの向こうから立ち上がった一条の姿が、ゆっくりと、しかし確かに紬の視界に映った。
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