孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
シャワーと後始末を済ませたあと、いつも通りの時間が迫ってくる。

莉子は、タオルガウンを羽織りながら、ソファに腰かけた一条の隣に当たり前のように身を寄せた。
まるで、これが儀式でもあるかのように。

ただ肩を抱かれ、身体を温めあうだけの時間。
無言のまま、何の会話も交わさない。

(乾いた愛……いや、違うな。湿った砂みたいだ)

お互いが自分の穴を埋めるためにすり寄り、互いの温もりで“気持ちの欠片”を潤わせようとする。
それでもうるおうことなんてないと、知っているのに。

ソファに座りながら、一条の意識は少しずつ過去に沈んでいく。

——母親の顔が、ふっと浮かんだ。

あの頃、日が暮れても家の部屋には明かりが灯らなかった。
誰も電気をつけない。
暗い部屋の中、キッチンのテーブルには無造作に置かれた菓子パンとペットボトルのお茶。
それが夕食だった。

「冷蔵庫の中のソーセージでもチンして食べといて」

ただそれだけ伝えると、母親はいつも化粧をしながら、鏡の前で自分の口元を赤く染めていた。

隼人がまだ小学生の頃。
夜が来るたびに、母は決まって『女の顔』になる。そして、家を出た。

金色のバッグ、露骨に派手な赤いピンヒール。
小指に光る大ぶりのリングが、妙にミスマッチだった。

深夜に帰宅するのかと思えば、朝の5時頃、ヨレヨレになって帰ってくる。
昼になるまでぐっすりと眠り、夕方にはケロッとリビングに現れる。

「おかえり、隼人」
“いつもの言葉”を口にするその女は、誰の母親でもなかった。

時々、帰宅すると見知らぬ男がいた。
リビングのソファでタバコをふかしながら、テレビを眺めている。

「ああ、帰ってきてたの?」

隼人を見ると、母は怪訝そうに片眉を上げ、まるで部外者を見るような目で告げる。

「ご飯、好きに適当に食べてね。あたしたち、ちょっと出てくるから」

そう言って、ふざけた笑い声をあげながら、男と腕を絡ませて夜の街に消えていく。

隼人は、その背中をただ見つめることしかできなかった。
足元の赤いピンヒールは、暗闇でやけに不気味な色をしていた。
< 30 / 211 >

この作品をシェア

pagetop