孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
あかりと夜遅くまで話した翌日、
紬は朝から髪をきっちりまとめ、いつもより少しだけ濃いめのリップを引いた。

鏡の中の自分に「よし」と小さく呟く。

オフィスでは、まるで何事もなかったかのように、てきぱきと仕事をこなしていた。

受電内容を記録し、進行中の案件の進捗を確認。

その合間にも、先日交通事故で入院した被害者側との連絡を取りつつ、治療費の打診書を作成し、医療明細と損害額の整合をチェック。

時折、上司や法務担当者へ進捗報告のメールも抜かりなく送る。

「西田くん、ここの示談交渉、相手方から返答来てる? 木村法律事務所のほう。」

「まだです。あ、でもFAXは届いてました」

「OK、それ先にPDFにして、システムに上げて。ここの進捗メモ、私が確認してから保留中に変えておいてね」

「はいっ、成瀬さん!」

異動してきたばかりの西田遼太郎(にしだりょうたろう)は、真面目だけど少し慌てん坊。

背は高く、スポーツ経験者らしい動きの良さはあるが、書類の扱いにはまだ不慣れだった。

「あと、これ。過失割合の折衝で、相手が『直進優先』って主張してるけど、ドラレコの映像があるなら、それ確認したほうが早い。依頼者に貸出依頼かけるメール、私がフォーマット送るから、作成してみて」

「わかりました!」

指示を出しつつ、自分の机の前では別案件の報告書を整理し、損保システムへ修正登録を済ませていく。

マルチタスクの嵐でも、今日はなぜか手が止まらなかった。

たぶん――泣く時間があるなら、手を動かしていたいのだ。
「頑張る」という言葉が、何よりも自分をまっすぐ保ってくれる気がした。

――それに。

一条隼人のことを考えると、まだ胸の奥が少しだけ痛んだ。

けれど昨夜、あかりが言ってくれた言葉を何度も思い出す。

「紬はね、愛される資格、あるよ。変に思い詰めないで」
「うまく言えないけど、諦めるのは早すぎるよ」

今はただ、自分を立て直す時間。
それが彼との距離をどう変えるのかは、まだわからない。

でもきっと、笑っていられる自分でいたほうがいい。

電話が鳴る。
「はい、成瀬です。あ、はい。担当させていただいております。ご依頼の件、確認できましたので……」

受話器の向こうの声に、いつものように柔らかなトーンで応じる紬の表情は、少しだけ晴れていた。
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