孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
その日は午前中から外回りだった。
紬と西田は、損保のグループ会社が使用しているサテライトオフィスを訪れていた。

そこは、事故処理関係の進捗確認や、共済保険との折衝、法人契約の大口顧客対応を行うための共有スペースで、各地の担当者が一定期間ローテーションで詰めている。

紬の目的は、現在進行中の「配送中の積荷事故」に関する法人契約先の担当と面談し、損害調査の報告内容についてのすり合わせを行うこと。

西田はその案件の引継ぎ予定者として同行していた。

「先方との書面、こっちで用意してるフォーマットと微妙にズレてて……その修正内容の確認って感じですね」

「なるほど……なんか、法律事務所のやりとりとはまた違った雰囲気ですね」

廊下の奥、会議スペースの前に差し掛かったときだった。

――視界の端に、見覚えのある顔が入った。

瞬間、紬の足が止まった。
目に映ったのは、グレーのスーツに身を包み、打ち合わせ資料らしき紙を広げている中年男性――岩崎信二(いわさき しんじ)。

紬がまだ入社して1年目の頃、直属の指導係だった男。

形だけは親切に振る舞いながら、エレベーターの中や飲み会の帰り道で、肩や腰に触れてきたり、耳元で「そういう顔、男を誤解させるから気をつけな」と囁いてきた。

あのとき、紬は笑って受け流す以外の選択肢を持たなかった。

誰も信じてくれない気がして。

あの記憶が、今になって冷水のように胸の奥に流れ込む。

「成瀬さん、どうしました?」

後ろから西田が声をかけた。
その「成瀬」という名前に、男が反応する。
顔を上げ、目が合った。

岩崎の目がわずかに細まり、あのいやらしげな笑みを浮かべた。

「あれ……成瀬か? 久しぶりだなあ。まさか、こんなところで会うとは」

その声に、ぞっと背筋が震える。
何年経っても、嫌な記憶というのは声色にまで反応してしまう。

「……岩崎さんも、こちらの案件を?」

「うんうん、ま、今はこっちの関連会社に出向しててね。お互い成長したなぁ。ずいぶん綺麗になったんじゃないか?」

軽口のように言いながら、彼はじっと紬を見つめる。
その視線に、記憶の中の不快感がそのまま重なる。

「西田くん、ここの書類、さっきのコピー室で見せてもらえる? ちょっと、確認したいところがあるの」

「え? あ、はい!」

紬は努めて冷静に声を保ち、西田をその場から遠ざけた。

今の西田にはまだ、この空気を読み取る経験もないだろう。

でも、これ以上近くにいてほしくなかった。

彼女はゆっくりと岩崎の前に立ち、視線をまっすぐに向けた。

「岩崎さん、お久しぶりです。でももう、お話しすることはありません」

――そう言ったあと、ほんの一秒だけ岩崎の目がわずかに見開かれたのを、紬は見逃さなかった。
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