孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
紬がティッシュでそっと目元を拭い、深く一度息を吐いたのを見て、一条は小さくうなずいた。

彼女はもう大丈夫だ――そう思えるほどには、落ち着きを取り戻していた。
だがその奥底には、誰にも見せないよう押し込められた、癒えきらない傷がまだ確かに残っている。

一条は席を立つと、執務室のドアを開けた。
紬が立ち上がり、名刺をそっとスーツのポケットにしまう。

「エントランスまでお送りします」
短くそう告げた声に、いつもの冷静な響きが戻っていた。

エレベーターに向かう廊下を、二人並んで歩く。
けれどその足取りの裏で、一条は静かに、自分の胸にある決意を噛みしめていた。

(もう、彼女を泣かせたくない。
自分の無力さを恥じるような場面を、これ以上経験させたくない)

彼は長く法律の現場に立ち、人の弱さも、傷も、そしてその上で立ち上がろうとする強さも見てきた。
だからこそ知っている。

“守られる側”に立つことの、どれほどの勇気が要るかを。

――だから、今度は自分が、誰かの盾になろう。

その「誰か」が、彼女であることに、もう迷いはなかった。

エントランスに着いた時、紬は一礼しようとしたが、一条がそれを制するように、やわらかく言った。

「……もしまた、ご不安なことがありましたら、いつでもご連絡ください」

その声には、事務的な響きはなかった。
ただ、ひとりの人間として、彼女を支える覚悟がにじんでいた。

紬は一瞬驚いたように目を見開いたあと、そっと小さくうなずく。

「……ありがとうございます」

声はかすれていたけれど、そこには確かに感謝と、信頼の色があった。

一条は、彼女の背中が自動ドアの向こうへと消えていくのを見送りながら、目を細めた。

(君が前を向くその日まで、私は何度でもここに立とう)
静かな覚悟が、彼の胸の奥で、深く結ばれていた。
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