孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
午後五時を少し回った頃、紬は自分のデスクに戻った。
気づくと、先に帰社していた西田がPCの画面から顔を上げる。

「おかえりなさい……大丈夫でしたか?」

西田の声には、ほんのわずかに心配が滲んでいた。
紬は慌てて笑顔を作り、「うん、大丈夫。ごめんね、急にスケジュール変わっちゃって」と答えた。

「気にしないでください。こっちは大した案件じゃなかったので。……でも、ちょっと顔、赤いですよ?」

西田の言葉に、紬はハッとしながら
「エアコンのせいかな?」と笑って誤魔化す。

すると、斜め向かいの席に座っていた茜と、コピー室から戻ってきたあかりが、ほぼ同時に紬の目元に気づいた。

小さく目配せし合った二人は、さりげなく紬の腕を取り、人目の少ない資料室の奥へと連れ出す。

「ちょっと、紬。どうしたの?……また泣いた?」

心配と警戒が入り混じった声で、あかりが低く問いかけた。
「まさか一条になんかされた?」とさらに詰めると、紬はすぐにかぶりを振る。

「違う。一条さんじゃないの。……午後、急に岩崎さんと回ることになって」

その名前を聞いた瞬間、あかりの顔から血の気が引き、次いで怒りが浮かんだ。

「岩崎って……あのセクハラ野郎でしょ!? あいつ、まだ会社にいたの?」

怒鳴りたい気持ちをこらえながら、声を抑えつつも明らかに怒りがこもる。

「なんかされたの? また?」

紬は少しだけ口元を引き結び、

「ちょっと、触られたり……車の中でも言葉がきつくて。でも、会議の後に一条さんが気づいてくれて……声かけてもらって、落ち着けたから、大丈夫」と小さな声で笑ってみせた。

その瞬間、あかりと茜は息を呑むようにして同時に紬を抱きしめた。

「なんで、なんであんたばっかり……!」とあかりが震える声で言い、茜は紬の背を優しく叩きながら、しかし目は鋭く怒りに満ちていた。

「岩崎、絶対、息の根止めてやる」

その低い声に、紬は一瞬だけ目を見張った。
茜は、いつも柔らかく笑う人だった。その彼女の瞳に、今は烈火のような決意が燃えていた。

「ありがとう……」
そう呟いた紬の声は、心からの感謝と、少しの安堵に揺れていた。
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