孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない
月島総合法律事務所――午後3時。

紬は、受付を通ってエレベーターに乗り、事務所の10階に向かった。
手にしているのは、事故案件に関する和解契約書の正本。直接、担当の一条弁護士に手渡しするよう、指示があった。

(また……あの人に、会わなきゃいけない)

胸の奥で、小さく警報が鳴る。
理屈じゃなく、ただ「怖い」と体が反応するのだった。

彼の冷たい視線、感情のない声音、そして無関心というより、むしろ明確な拒絶のような空気――。

彼の前に立つと、自分がこの場にいてはいけないような、場違いな異物に思えてしまう。

コンコン、とノックして扉を開ける。

「失礼します。成瀬です。先日お渡しした案件の、正本をお持ちしました」

「――そこに置いて」

低く、抑揚のない声が返ってきた。
彼は顔も上げず、PCの画面から目を離さなかった。

(いつも通りだ。何も期待しない、何も感じないふうに、淡々と)

紬は机の端に書類を差し出した。
だが一条は、ようやく顔を上げると、書類を受け取ろうとして――

指先が、かすかに触れた。

ほんの一瞬。
だが、紬の体はピクリと反応した。

「っ……すみませんっ」

まるで熱湯にでも触れたかのように、紬は手を引っ込めた。
その動きには“恥じらい”の色は一切なかった。ただ、怯えと拒絶。
目を伏せ、顔をこわばらせ、心底不安そうに息を飲んでいた。

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